思考力

OverLay

最近、ふと思い出す子がいる。大学のときに出会った、とても優しい女性で、同じ学部の同じ学科、同じ学年だった。とても純粋爛漫というか、汚れがないというわけではないのだけれど、いつも明るいオーラを放っている。誰も友達がいない自分にとって、その子と同じ授業の「英会話」の授業だけは苦痛でしかたなかった。なんにせよ、私の隣はいつもポッカリと空席で、毎回行われるペアワークでは、私とペアになってくれる人がいないという、まさに針の筵のような状態に苦しんでいた。

そんな自分のパートナーに進んでなってくれる子に、本当に明るさと優しさを感じ、どんどんと彼女を好きになっていった想い出がある。この記憶は、とても大切にしたい記憶であり、何の拍子なのかもわからないけれども、その子の追憶が心の中によぎった。いつも、過去のツラかった思い出ばかりに苦しんでいる自分にとって、これは何かの転換期なのか、ただの偶然なのかはまだ分からないけれど、当時のほんわかとした記憶を思い出せるというのは、何やら地震のようなものに繋がっていく。正直、そこまでいうのは大袈裟なのかもしれないが、その子を想い出せるというのは、少しは自分の心にゆとりができたのだと解釈してもいいのだと思う。

彼女は、心の底から優しい。とにかく優しさに溢れている。実際、隣に誰も座っていない自分を見て、自分の英会話のパートナーになってくれる。その時間のそのペアワークの時だけの接点なのだけれども、彼女がどれだけ優れた人なのかを感じとることができた。ただ、本人にはそんな自覚はないように思う。あまりにもその優しさが自然なのだ。無理がないというか、キラキラ輝く小川の水が、一時だけ私の方へ伸びてきて、それがまた下流に流れていくような感覚。そして、その小川はもちろん他の方向へも流れていくのだから、その流れを受け取れる人全員に喜びが行き届く。そうなっていると、小川の中というより、源泉を自然に流している本人には、なかなかそのやっさしさを配っているという自覚は芽生えないのだと思っている。

優しい人は、決して自分を優しいと思わない。それは、優しくしていることが「当たり前」「普通」のことになっているからだ。だから、そんな自然から溢れ出る優しさに、多くの人が魅了され、癒されたいとか、明るい自分でいたいという気持ちが流れ、その自然な優しさの源泉を探すかのように、その人の周りに集まっていくのだと思う。まさに、そこまで優しい気持ちをもっている人がいて、そんな人に短い期間だったけれども好意を抱けたことは、自分にとってとても大切な記憶となる。

今の自分は、優しさのカケラもないのだろう。周りから人は消え去り、独りでいる時間が大半だ。最近よく思う。人格を根底から変えようとして無理をしたところで、それはいくら明るい自分を演じたとしても、そこには「人工的」に造り上げられた、無理に仕立て上げられた脆い仮面にしかならず、それをキープすることそのものに疲れや苦しさを感じるのであれば、そのままの独りの自分を納得させられるような生き方を模索していくことが大切なのではないだろうか。もう、その子だって中年になっているのだけれど、その自然な魅力というのは、決して衰えないと想うし、むしろ年齢という年輪を加えられて、ますます深い魅力がオーバーレイしているのだとおもう。

歳の重なりを嘆く人も多い。確かにその時間の流れに、身体は抗うことはできない。しかしながら、自分の思考や思想、気質というものは、いくらでも深められるし、固定化されていない部分に魅力的な性質を内含しているのであれば、そこに魅力を感じてくれる人がきっといる。そのような人が、いつ現れてくれるのかわからないが、自分探しの旅だけは継続する価値が十分あるのだと感じている。

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