思考力

基本の自然体

体内時計は壊れ、もはや日付を跨いで眠りに落ちることが当たり前になった。もちろん、眠剤を飲むのだが、なんとか早く寝なければという焦りばかりが募り、夜風でなんとか自分をごまかそうと、自販機に行ってジュースを買いながら眠りを待つのだが、「待ち人来ず」の切ない状況が続くばかり。そんなわけで、深夜にブログを仕上げようとしたのだが、なかなか考えもまとまらず、とりあえずMacのメモに書き込んだものをコピペしようとしたのだが、私のブログのワードプレスはコピペ防止機能がついているようで、貼り付けることができなかった。やはり、私のブログはAIで大量生産されることはなく、しっかりと自分の指でタイピングしたものしかアップロードできないようだ。まぁ、それの方が自分の記事に責任を持てるのだからいいことなのかもしれない。

しかしながら、このブログを掲載しているサイトをコピペしてチャットGPTに読み込ませることは可能で、そのテキストを音声AIに読み取らせれば、見事にひとつの動画としてYouTubeにアップロードできる。これには、文明の進歩に脅威を感じるほどだ。あまりにも飛躍しすぎている。このままでは、人類が文章を作成するという能力がなくなってしまうということを否定すること自体できなくなってしまう。それでとしても、自分で書き上げた記事を字幕として動画として再編集し、それをYouTubeにアップするという作業はとても楽しく、何本もアップロードしていたら、YouTube側から1日のアップロードの上限を超えたという警告が来てしまった。何かのバグなのか、私の脳みそのバグなのかは分からぬが、とりあえずのところ自分の中での趣味が増えたと解釈すれば、いいことなのかもしれない。

私は、幼少の頃から「年賀状」を書くことが大好きだった。とにかく凝った年賀状を作り、恩師や友人に年始に贈る。こんな素晴らしいこともない。時代の流れで年賀状を書くという習慣そのものが廃れ、この文化を時代の廃棄物のような感覚で批判する人もいるくらいだが、私の価値観からすると、とてももったいないような気がしてならない。私は、早い時だとゴールデンウィークあたりには、次の年の年賀状のアウトラインを想像することもあり、しかもその作業に取り掛かる時期になると、気持ちが先走るような感覚で胸が躍る。なかなかレアな存在であるのかもしれないが、このような気質を活かした仕事につくのもアリだったのかもしれないと思うことさえある。とにかく受け取った人の年始に印象を与え、次のアクションにつながって欲しいという気持ちと、それ以上に自分の承認欲求を満足させたいという気持ちになる。

これは、学習塾の講師として勤務していたときにも言えるのだが、とにかく自分の作った教材を生徒たちに受け取ってもらうことが生きがいでもあった。それは、生徒たちの学力向上という目的をズレ、まさに自己満足の領域にまで達していた。それが自分の首を締め、仕事自体を辞めてしまったケースも多々あったのだが、やはり自分の中で授業を構成する上で欠かせない教材づくりと、それを受け取った生徒の感動と喜びを受け取るのも自分の喜びでもあった。これを「WIN-WIN」の関係といえるのだろうか。

ただ、まだYouTubeの作成には数日しか経っていないというのに、すでに気持ちが萎えたというか、疲労の蓄積がある。なかなか寝付けないのもそれが原因であるのかもしれない。けれども、その作業自体に入り込めば、この上ない充実感があるのだから、今後ともそれが生きがいとなるような生活を続けられたらいいと思っている。今日、海を見に行った。デジタルデトックスの意味も込め、海を眺めていると、やはりスマホをいじっている自分が自然な自分であることに気づく。この現象を現代病と呼んでいる時代なのだから、自分はやはり海を見ながら風を感じ、波のうねりを見ることだけに専念するべきなのだと思う。そしてそんな行為が自然にできるようになったのであれば、自分の中に不純物が停滞することもなくなっているはず。距離を取ることの大切さを意図的に感知しつつ、それが当たり前となるように生活に溶け込ませたいものである。

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