思考力

気怠い幕開けから掴む

何かに引っかかる。眠気が残る身体を起こし、とりあえず再度眠気が来るのを待てども、なかなか二度寝という幸福を味わえず、深煎りのコーヒーを作って飲み込んだ。観葉植物を日光浴させなかった昨日、今日こそは光と水を与えてあげる。こんな無責任なオーナーである自分が、ペットを飼うとか、まして子供など養えるはずはないと悟る。自分ができることといえば、それこそ自分自身を見捨てないように、自分の精神状態だけは平穏な状態で保ってあげることくらいだ。そして、そのことをするには、自分はとんでもないほど強い労力を必要とする。自分は、打たれ弱いのだろうか。はたまた、自分は自分という強敵と正面から立ち向かっている強い人間なのだろうか。

一昨日から始めたブログ記事読み上げ動画。これは、自分の中ではとても面白い創作活動になっている。動画編集が億劫になって足踏みをし、もう動画編集という雑務に縛られたくないからリタイアしていたYouTubeだが、今のAIによる編集技術の進歩で、一日や一週間単位で行っていた作業が、30分もあれば完成してしまう。しかもそのクオリティーは、とんでもなく高い。自分の書いてきた記事を再推敲し、さらに磨きをかけて編集すれば、自分の知らないところで文章がポップコーンのように弾けて内容が予想もしなかった方向へ飛び、そこに新しいルートが照らされることがある。それが、たまたまであれ自分が文章の中に秘めた魂が、違う形で息をするような感覚になる。蘇生されたとでもいうのか、なんとも不思議な感情が湧き上がってくる。

文章の推敲は、チャットGPTの力を借りつつ、それをエッセイ風にしたり論文調にしたり、はたまた対話形式にしたりとなんでも変更可能。そして、そのテキストを文章読み上げツールにコピペすれば、自分は何も考えなくとも、自分の表現にぴったりとフィットする画像をAIが見つけ、それにBGMまで乗せた状態で提示してくれる。そのあとに自分がすることといえば、改行のチェックと動画アップロードの完了を待つことくらい。もはや、基盤となる素材の自分の文章があれば、そこからいろいろな角度から自分の考えを見直すことができるし、それを自動生成ツールで半自動的に生産できるのだから、自分が作品を量産したり、世間の少しでも多くの人の目に触れさせたければ、もはやこれらのAIの機能を使わない手はない。

数日間ずっと続いている起床時の気分の落ち込み。それは、自分の中ではとても苦しい症状であり、このような不調は今後の人生でもずっと続くことになる。ただ、このような状態であれ、AIの力で自由自在に自分の生産するものというのは大量生産化されることが可能になったわけである。自分で紙媒体の本を作り、販売までしようとすれば、出版社の力を借りての自費出版だとしたら多額の費用と人の手がかかる。ただ、もはやそんな時代は終わった。書くというところから販売するところまで、ほとんど全てをAIに任せることができるようになったのだ。

このような時代の流れを「悪」と捉える人も多いし、これを一時的な熱狂だと卑下する人もいるはずだ。ただ、これを「ネオスタンダード」だと受け取り、できるだけ自分と親密に関わらせようという気持ちを持つことは、先を生きていくという姿勢には不可欠なのだ。インターネットの普及に伴ってiPhoneが誕生したとき、世間は未来にかける人とそうでない人に分かれ、今は世界中でスマートホンを抜きにした生活が考えられなくなっている。このとき、いかに柔軟に自分の生活や人生に新しい流れを組み入れられるかがいかに大切かということの教訓を知る。後手後手に回っていてはいけない。回りながら先へ進む。そして掴むという気持ちを常に持つ。最終的にはネオスタンダードを自分が作り上げるというくらいの積極性というのが欠かせないのだ。

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