思考力

巻きマルゲリータ

最近は、夜に記事を書くことが多くなった。朝書く時間がなくなったり、すっかり忘れてしまったりしないかと不安になり、念のための保険をかけて、記事を完成させて布団の中に潜り込む。今日、とても嬉しいこともあり、せっかくならば、今日起こったことは、今日のうちの新鮮な状態で書き記し、具体的に表現するのも悪くはない。毎日の会話が、「レジ袋は不要です」とか、「のり弁」くらいの会話しかしていないので、大学時代からの旧友と、その繋がりのある人と、3人で洋食屋でランチをしようということになっていた。初めて会う人と、いきなり洒落た店に行くというのは、なかなか緊張するのかと思っていたが、相手は非常に気立てが良く、とても好感を持てる人だったので、円滑なコミュニケーションを取ることができた。

大学の時の友人の知り合いが経営しているという洒落たイタリアン料理のお店。しかも、ランチタイムが終わろうといているのに、列ができている。この時点で、味で裏切られることはないと感じていた。店の中に入るなり、他の客のテーブルに置かれたパスタやピザは、とても美味しそうに輝いており、まさしく本格的な石窯で完成したばかりの逸品ばかりだった。

私たちの元へ運ばれてきたピザも、たいへん美味しく、デリバリーピザばかり注文している自分も、友人に紹介されたこの店のシェフの腕前の高さは、十分認められ、十分納得できた。ホールの方々も、とても気前よく元気、そして笑顔を絶やさずにテキパキとうごいている。このような連携プレーがあるからこそ、料理ばかりではなく、お店の雰囲気も良くなるのだと思う。明るくハキハキとした対応は、私にはできないことであるので、このようなワンシーンからでも、自分に足りないものが何なのかということを考えられるようになった。特に、40半ばも過ぎ、自分の中で何かしっかりとした考え方の奇跡を描くようになったのだ。

大学の時からの友人は、とんでもなく大きな身体で、空手と合気道をやっている。もちろん、そんな怪力を振りかざして誰かを威圧しようとすることはない人だから、今日紹介される予定の人とも、安心してコミュニケーションを取ることができた。やはり、自分の中で、暴力的な言葉や威圧感だけで他者を威嚇することが、いかに無意味なことなのかということを、改めて知った。最近苦しんでいる「思い出し怒り」であっても、私が心身ともに鍛えていけば、今の強い怒りの炎は消え去り、腕力はないにしろ、一言相手にお返しの言葉でも突き返せるほどの気構えは持ちたい。

今後の人生で自分を意図的に攻撃してくるような輩は、たくさん集まってくるだろうが、そのような暇人が、こちらに向かって牙を剥いたとしても、「可愛いもんだ」と思ってスルーすれば良い。それでも文句を言ってくるのであれば、物理的な距離をおけば良いし、それでもダメなら、そんなニンゲンは、ただ「二足歩行をしているだけの猿」だと考えていれば良い。お猿さんには失礼だが、それくらいの気持ちを持っていなければ、怒りの渦が巻き返してしまう。思い出し怒りで震えていた毎日の中、タチの悪い敵として参上し、必死に足を引っ張る者に対して、冷静沈着を守りさえできれば、卑怯者というのは、他のターゲットを探しに行くだけになる。所詮、誰かがかまってくれると思い込んでいるのだろうが、自分が孤立していることに気づけば、そのときに自分の立場がなくなっていることにも気づくはずだ。

紹介してもらった方は、実は私と同じ障害を持っている方で、睡眠の波が、どれだけ双極性障害に悪影響を与えてしまうのかとか、思い出し怒りの苦しさなどをシェアすることができた。他にも、何の気兼ねも無く冷静に、ときに嬉しくて大きな口を開けながら談笑できたことは、自分にとって、掛け替えのない契機を与えてくれた。正直なところ、今まで同じような苦しみを抱えている人と、ゆっくりと話をするという機会がなかったことにも気づいた。そういう意味も込めて、今の私は、相手次第とはいえど、様々な人と交流することができそうだし、馬が合うような気持ちが生じたのであれば、あくまでも「付かず離れず」の条件をお互いに確認しながら、楽しい時間を過ごせれば良い。いや、それで十分なのだ。

最近は、1年間、地獄のような経済的ピンチを喰らい、もはやここまでかと思う時が何度もあった。それでも、自分なりに大きな借金も返せたし、これからは、様々な面でお互いを認め合って思いやりの心を忘れてはならないのだ。必ずくる明日という日。仮に明日を迎える前に魂が抜けてしまったとしても、こうやってブログを書き続け、自分の思想は遺していく。少数ながらも自分の記事を読んでくださる方に感謝し、今回の記事を終わりにしようと思う。

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