思考力

迫る未曾有の初日

果たして、という表現が縁起が悪いので避けたいが、まさか「元日」に、大地震が起こるとは予想だにしなかった。海沿いで、新年のLINEを送り、その返信を確認してみると、石川県で震度7強の地震が発生したという表示。私が、この事件というか事故というか、自然の大災害を知った時は、まだ情報が早すぎたせいか、GoogleでもYahooでも、おめでたいトピックスで賑わっていた。それにしても、デマというにはおよそ及ばない情報が錯乱し、YouTubeのライブ報道などは、どんどん事の大きさを掻き立てていた。

数時間前に勃発した出来事なので、私としても、にわかに信じがたいことでもあるし、今日の今日で記事を作成しておかないと、何らかのそう召喚に襲われそうだったので、今、ブログをアップロードすることにした。だから、色々と表現の中に、不適切なことがあるかもしれないのだけれども、それはご容赦いただきたい。とんでもない年明けとなってしまった。この非常事態が、本当に皮肉なことに、元旦に発生してしまったことは、なんともいまだに信じがたい。

元旦。今、天変地異のような出来事が生じてしまい、自分でも何を優先したら良いのかがイマイチわからない。昨年末に、母の遺影を立てかけて、ゆっくりと記事を描こうという気持ちもあったのだけれども、遺影に映る母の面影が、やや混乱しているようにも見えてしまう。日本海沿岸は、もはや大パニック状態であり、これから夜にかけて、いかにして被害を最小限に抑えられるかが問題。そして、それ以上を求めことは、無情にも悲惨な結末しか待っていないかと思うと、人間の無力さを痛感してしまう。自分ができることといえば、Twitterエックスで、家屋に下敷きになってしまっている人の叫びを、リツイートすることくらいだった。

今、ラインとメールを受信した。ブラック企業での戦友となり、自分が千葉でできた唯一の友人と呼べる方からのお知らせ。正月に一度だけ長電話をするという、いわば恒例の行事があり、まさに年末にかけて、その日が来ることを待ちわびていた。ただ、その方は、被災地域にいる。とっさに返信できたことは、なんでも力になれること、せめて救援物資を送らせてもらいたいという旨のメールを返すことしかできていない。これ以上、自分は何ができるのであろうか。

ここを強調するのは正しいのか分からぬが、よりによって、「元日」。これ以上最悪な幕開けは考えられない。「南海トラフ」という太平洋沿いうの危険の予言ばかりが先行していたのに、それを真後ろから叩き崩されるような出来事。まさに、大惨事。人と人との憎しみ愛や小競り合いならば、怒りの矛先は具体的にもなるし、被害者側なのか反対側なのか分からぬ愚鈍な警察官の屁理屈ジャッジにも文句を言えそうだが、自然災害ともなると、誰というより、何を憎んでいいのかさえ分からない。今、「憎む」という表現は慎むべきであり、現在進行形で起こってしまった自然災害に対して、せめてもの具体的な思考回路という道を探り出さねばならない。これは、私だけではないし、日本国民、いや世界にいるほとんど全ての人たちが考えるべき時に立たされているのだ。

阪神淡路大震災。東日本大震災。そして今回の日本海全域を飲み込む大地震。地震大国日本の中で、この3つを大きく経験した。もちろん、熊本の大震災だって除外できない。日本という土地に住み、その恩恵を受ける代わりに差し出さなければならない代償があるのであれば、それをどうやって私たちは日常生活で抱きかかえていかなければならないのだろうか。やはり、両手放しで生活できるほど、幸福な人生という道は存在しないのだ。本当にないことを祈りながらの発言だが、もし仮に、この記事をアップロードした瞬間に、私の住む場所で地震が発生して、津波に飲み込まれるのかもしれない。その時に、私は正しいと思われる行動をとることができるのだろうか。正直、今のところ、その自信は全くない。

表現に苦しむ。これは、文章を書くという時に、必ずぶち当たる問題でもある。そして、言葉には責任が伴い、何気ない言葉が、誰かの心を深く傷つけることだってあるのだから、この微妙な心の隙間を常に考えて表現していかなければならない。これが、論証責任と言われることなのだろう。今回の記事ばかりは、自分の今の気持ちを、どうにかして「文字」として表現したいだけであり、誰かに共感してもらおうという記事ではない。このおぞましい事故が、これからの日本に大きな傷跡を残すことは間違いないし、まだまだ余裕を見せられる状態でもないし、もっと被害が甚大になることだってある。この未曾有の元旦の大災害を、改めて考えるべき時間となった。

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