思考力

時間軸の綱渡りアーティスト

眠った感がある。確かに昨晩は、眠剤を早く服用しつつ、布団の中で眠気が来るのが遅くなり、焦りながら寝落ちしたのだが、眠りの深さが、ここ最近の中で一番よかった。今、朝9時なのだが、ここまで気持ちが良いと、もう一寝入りしたい気持ちだが、やはりスッキリと目が覚めたので、このまま覚醒した方がいいのだろうか。今、洗濯機を回しながらキーボードを弾きつつ、少し迷っている。とりあえず深く眠れたことに感謝し、再び訪れるかもしれない眠りを妨げないよう、目覚めのコーヒーは飲まないでおこう。

こんなに爽やかな朝を迎えられたのには、いつにもない要因があり、昨日、東京の病院の受診をし、そのまま障害者アート展に足を運んだことが良かったのだ。主治医の診療を受ける渋谷から、二駅離れた故郷に向かって徒歩で向かう。さすがに距離があるといえど、久しぶりに生まれ育った街を歩くのは、かなり胸が躍った。かなり桜も散ってしまった現在、青春時代を過ごした広い公園も少し寂しい状態で、これまた桜の名所である故郷の川沿いの桜も、かなり散ってしまっていた。

そんな桜の名所の故郷では、知らぬうちにお洒落な飲食店が増えており、なかなか様変わりしている場所も多かったが、やはり骨格となるピンポイントがあり、そこに変化がなかったことに安堵のような感覚があった。アート展の会場となる場所を予め理解し、街全体を徘徊していると、自分の育っていた場所と過去の自分の歴史がフラッシュバックしてくる。10代の私が、今の自分と話し合うことができるのであれば、どのような話をするのだろうか。若い頃の自分は、同じように未来の40歳頃の自分の姿を強く心配していた。やはり、過去と未来を結ぶ時間の真ん中に「現在の自分」を置いてみると、回答は出ないまでも、残念ながら決定的な何かを掴めないようで、少し怖くなった。

アート展は、少し小さめのカウンター式のバーがあって、少し落としたライトに、ピアノや光グラスがある趣深い雰囲気。会場には、私が一番乗りだったようで、私が展示場となるところに入っていくと、主催者が満面の笑みで迎えてくれ、他のメンバーも同じように自分を歓迎してくれた。展覧会の基本は、まず全体像を把握してから詳細を見ていくことが基本だと思っていたのだが、何やら私も主催者側も緊張しているのか、ぎこちなくなってしまった。手前側から作品を鑑賞し、ひとつずつ作者のアートの特徴だった部分を尋ねていく。やはり、私は明かるい気持ちを出そうとも、なかなか緊張していた。

ただ、一つ一つの作品には、その作者の特徴が見出せ、その作者が目の前にいる訳だから、ぎこちない会話であっても、そこに楽しさというか前向きな気持ちになれる琴線があることは確かなことであった。反時計回りに作品を鑑賞していると、最後の作品で完全に足が止まった。抽象画という部類に入るのだと思うのだが、色合いや筆の抜け方などが自分の感性と共鳴する部分が多く、さらに抽象画以外であっても、その作品から何か離れられないような気持ちになる。作者は会場のどこにいるのだろうかと思ったが、あいにく作者は欠席だったようだ。ただ、作品そのものから滲み出る波長などから、その作品のアーティストの発する心の明暗などが伝わってくるようだった。

とりあえず全ての作品を鑑賞しつつ、さらに作品をみるために一周。すると、1回目にぎこちなかったアーティストの方でも、少し打ち解けて話すことができる。これが、慣れというものなのか。いや、これこそが共鳴ということなのかもしれない。少し大袈裟な表現になるのかもしれないが、未来の自分に伝えられるとしたら、そのような言葉を伝えることになるのだろう。さらに歳を重ねていく自分が、今の自分と話をできるのであれば、一体どんな会話になるのであろうか。昨日の展示会を、どのように受け止めるのだろうか。

ただ、芸術に回答はないと思っている。昨日は昨日の受け取り方が現在に繋がっているのであり、これからの方向性が如何なる方向へ進もうとも、それを、そのときの自分が、どう受け入れる気持ちが大切なのだと思う。やはり、感性を揺さぶられると、共鳴の糸口を探し、そこから向かう自分の可能性が広がるという期待を持つことは、アートを展覧するときに、とても大事なことなのであろう。

-思考力