思考力

黒い斑点模様

またもや私の睡眠負債日記のような記事になる。そもそも、毎日毎日「刺激」というものから遠ざかっていると、やったことといえば眠ったことくらいしかなく、その睡眠の長短と深さくらいしか記すこともなくなってくる。明後日、主治医のもとへ「ソレ」を報告しにSHIBUYAに行くから、そのときに少しくらいの刺激は、あるのかもしれないので、このまま筆を進めようかと思う。

やはり、このままダラダラとこの記事を書き続けるのはいかがなものかと思いつつ、毎日やることといえば、寝転がってiPadを眺め、ネットサーフィンをしながら閲覧し、見ている記事は、下らぬ芸能人のゴシップだったり、サーフィンの動画だったり、買い物心に火がつくような広告だったり。やはり日常生活が、全く充実していないことを示している。その中で、いちばん素晴らしい動画は、寝て観る「夢」であり、その創造的なファンタジーの中に登場する自分に酔いしれるばかりだ。

今、起きたばかりなので、半覚醒のまま訳のわからぬことを書き綴っていることは間違いないことだが、最近のブログの内容が、少々、通常の人が書くような内容になっていないことや、睡眠がどうたらこうたらという通の人が、興味を抱くとはとても思えないような文章になっていることは間違いない。書き心地というか、書き上げたときの達成感や、書いているときの集中力というものに欠けている。そもそも、昨日は何時間寝たかも分からぬほど長く眠り、買った記憶もないジュースの空き缶が二本も出て来れば、良い文章など書けまい。先日の大事故からの教訓で、眠剤服用後は、決して自転車を運転しないという心構えを持つようになったことは、とても評価できるということだろうか。

今、珈琲が出来上がり、それをすすりながらカーテンから入ってくるヒンヤリとした風を感じる。日差しは強い。アパートの住人は、仕事に出かけたのだろうか。こう考えると、自由気ままな自分が怖くなってくる。この外房の生活で、車がないというのは、やはり苦しい。自転車での移動は、骨が折れる。かといって、もっと都会に引越すのは、なかなか現実的ではない。この空白期間に、何をやっていたかと問われれば、返す言葉もなく、オーナーに入居を断られてしまうことだろう。

カビの生えたカーテンが、ユラユラしている。このカーテンは、明日、処分する。今日、まだ使えそうなカーテンのクリーニングが終わるので、選手交代ということだ。自分の中で、何かを新陳代謝させるとすれば、何になるのだろう。自分には、他の誰もがもっていない、逸脱した秀逸な何かがあると思い込んでいたのだが、中年になり、何も残せていない自分は、他のほとんどの人と同様、眠り、飯を食い、排便をするという、動物として当たり前のことしかできない「ニンゲン」であることを認めざるを得ない。

外は、快晴だ。それでも、部屋のカビの生えたカーテンは、ユラユラと舞っている。若い頃は、とりあえず生きることに専念すれば良いという結論で終わらせられた問題だが、今の自分には、もう体力も限界に達した時のことや、気力の問題などの不安が付き纏うようになった。すると、あと10年もすれば、遺される気持ちというのは、如何なるものなのだろう。それが、絶望というものなのだろうか。

珈琲を飲み始めてから、脳が一気に覚醒してきたのだろうか、書く文章に勢いが出てきた。ただ、もうこれ以上書くことは止めようと思う。これ以上暗い文章を書く元気もないし、少し、今日の晴天の中を歩いてみようかとも思ってきた。最近変えた、部屋のレイアウト。窓際に、デスクを配置したのは、正解だったのかもしれない。MacBookがギリギリ置ける小さな机で作業しているが、やっとのこと週末に広くスペースを取れるデスクが来る。文章を書いたり、絵を描いたり、もちろんパソコンで調べ物をしたり。そうだ、英語の勉強もしてみよう。やはり、私が英語講師として積み上げてきた何かが、きっと私を救い上げてくれるはずなのだ。

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