思考力

片付けの過渡期

 

まさに、床が見えないような、とっ散らかったいたアタマの中の状態であった。思考が四方に飛びまくっているうちに、それを整頓しようという気持ちさえ萎え、完全に心の汚部屋を放置していた。会社員を辞めてから、少しずつ自分の思考を整えていくうちに、これからの自分の考え方が明晰な状態になり、過去の思いに区切りをつけ、そのスペースごとの床が見えるような、整理された思考の片付けに勤しんでいた。今は、やっと「カオス」の状態から卒業し、まるで禅を組んでいるかの如く、ただただ「今」だけに意識を集中させるような気持ちで、シンプルに心を整えている最中だ。

今、そんな思考の片付けをすることが大好きになっていて、必要な情報を取捨選択したり、そのチョイスした物事を楽しみながら、「今」に集中することができる。するとどうだ。個人事業主として開業して以来、何の音沙汰がなかった自社に、少しずつ少しずつ仕事の依頼が入るようになった。一年以上、不安な気持ちに苛まれていたので、このようにローギアでありつつも、「ゼロイチ」からの発進という、最も力が必要な状態を抜けられそうで、部下はいなくとも、自分自身が、己の弱い心を統制できるだけの優秀なリーダーとして、散らかり抜いていた心の状態を整えることができるようになった。

確かに、まだまだ自分の過去のトラウマに対して、完全に折り合いを付けられているわけはなく、そんな負の記憶に、自分の心が乗っ取られてしまう事もある。しかしながら、それを完全に消せるとも思ってはいないので、それらのネガティブな感情と共に生きていくことを肯定していこうと思う。こう考えられるまでに自己成長できたのだと思えば、自分の中で物事を完結させられることが多くなったと知り、馴れ合いの友だちなど必要ないということにも気付けるようになる。くだらぬ過去の思い出話ばかりに花を咲かせたところで、得られるものなど、虚しさ程度のものだ。

あくまでも、自分の心を統治させられるリーダーというのは、他ならぬ自分であり、より豊かに生き抜くためには、馴れ合いの関係ではない、志の高い仲間との結束である。今、自分は一人で動いている。まだ、仕事上の仲間と言える人は、存在していない。でも、自分は一人だからツライという気持ちなどなく、物事が動かないことに対して自信がなくなったり、何らかの結果が得られていないから不安になっているわけでもない。だから、スナックやチョコレートのような、依存性の高い一時的な馴れ合いの関係しか持てない人との関係は、潔く切り捨てるべきだと考えられるようになった。

コロナ禍で、世界中の全ての人々が、見えざるウィルスと戦っている。そのような中、やはり自分の中に自分を押し殺し、誰かと半ば強制的に考え方を合わせたり、不安を解消するために、実りのない行動を共にするような人と「愚」を起こすような関係を続けるべきではない。繰り返しになるが、自分の生き方を決めるのは、他ならぬ自分である。何かを決定するときに、しっかりとした主体性をもっていなければ、失敗をしたときの責任を、自分以外の外的な要因に求めることになる。そうなってしまえば、最終的に、全ての選択肢に自分の考えを当てはめられなくなり、常に誰かを嫉妬したり、いつでも誰かに羨望の眼差しを向けるだけになってしまうのだ。

私は、大きな歯車の中で動いていた頃の自分を省みて、自分一人の考えを食い潰された原因を考えてみると、結局のところ、主体性を失い、歯車全体に対し、勝手に自分に被害をもたらせた負の要因を、歯車全体になすりつけるような考え方しかできていなかったようだ。自由に生きるということと、自分勝手に生きるということは、似て非なるものがある。あくまでも、前者の生き方を目指すためには、馴れ合いの関係などは、とっとと捨て、自分の中に秘めているだけだった主体性を重じて、問題に対処する気持ちを失わないことが、極めて大切だということに気づく。

自分の周りにはびこる壁に萎縮するのではなく、自分の中に秘めていた才能に気付けるような行動力を身につけられるように、「独り」でいることにプライドを持てるような生き方をしていきたいものである。今回は、かなり抽象度の高い記事になったが、自分の根底にある基準が、まだ鮮明に見えていないから、まだまだ自分の表現力がついてきていないのだと解釈してもらいたい。やはり、まだまだ未熟なのである。

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