思考力

先を行く人に学ぶ。残忍な人に学ぶ。

 

私が高校生の頃から、ずっとサーフィンで一線を張っている「ケリースレーター」というサーファーがいる。彼は、今もなお、コンペティターとして活躍している。これは、とんでもない偉業である。私の残りの人生を、一生かけてでもメイクできないどころか、沖にすら出られないような海の中にある波を乗りこなす。しかも、自分よりずっと若い世界トップレベルのサーファーと、コンペで戦うのである。心身ともに、どれだけの鍛錬が必要なのであろうか。それを達成することに対して、考えただけでも気が遠くなる。

人は、ある大きな目標を設定したときに、不安とやる気が入り混じる。そして、その目標を達成しようとするときに、運を含めた様々な要素によって、そのゴールにたどり着けない「言い訳」のようなものが出てきてしまう。これは、最初に掲げた目標が高すぎたという意味においては、仕方のないことなのかもしれない。ただ、自分が設定した目標が高ければ、それだけ自分の中での意識が高まるものだ。目標達成をする者というのは、徐々に、諦める気持ちが強くなって、一か八かのギャンブル的な行動に出るようなことはせず、己の足元を見て、一歩一歩着実に歩を進めていくのだ。

今の私は、豪華なレストランでモーニングの食事をしながらの朝を迎えられずとも、まだ、近所の人たちが寝静まっている中で、小鳥が鳴き始めている朝に、1日のうちで最高の幸せを感じられる朝のコーヒーを飲みながら、ブログを書けている。人生の歩を進めるにつれ、ささやかな暮らしの中ではあるが、自分の人生にゆとりが生まれてきていることは確かなことであり、別に、そこに裏話があるわけでもなく、ケリースレーターが成し遂げた偉業と同じように、自分の人生に「ゆとり」を持たせるがために歩んできた道のりに、誇りを持てる。自分の中で感じられる究極の人生を送るためには、他人からの基準ではなく、あくまでも自分の中で決めた価値基準で、人生を考えることが重要なのだと思う。

そのような価値基準を持てない者が犯人であるかのような、悲惨な事件が後を絶たない。列車で刃物を振り回す事件が、また起こってしまった。これで今年に入って2回目だ。まるで、地下鉄サリン事件のようだ。このような残忍な事件の背景には、やはり、複合的な原因があるとはいえ、大きな一つの原因として、幸せに暮らしている人に対しての「羨望」のような気持ちがあり、そこには、歪んだ価値基準しかないのだろう。もちろん、犯人がしでかしてしまったことは、許されるべきことではないものの、そのような残忍な事件が起こってしまった原因を、熟考することは、極めて大切なことだと言える。

今年の6月に他界した母は、何よりもまず「家族」のことを優先に考えていた。まさに、自分の人生のことなど放り出して考えるような人であった。ただ、今でもいがみ合っている私の兄弟間を考えれば、やはり、まず優先すべきは「自分」のことであり、その自分の人生の幸せを感じながら、家族の幸せを確保することが大切だったのではないかと思っている。散々甘えさせてもらった自分が、そんなことを言うのは失礼だが、やはり「親」という立場で考えたときであっても、自分の人生が充実することを守ることが前提で、家族の幸せが成り立つのではないだろうか。

母には、いくら感謝しても足りないくらいだ。こうやって、自分の人生について考えられるような人生を、40半ばという若さでできているわけなのだ。普通なら、仕事を引退してから10年くらい経った老齢期からできるようなことを、今できているのだから。そのような幸せを噛みしめつつ、今一度、いかにして凶悪な犯罪が起こってしまっているのかということを、噛み砕いて考え抜き、まず自分の人生を充実させたい。そして、自分の担当する教え子を初めとする、自分と関わりを持ってくれる人たちの人生の道標を示唆できる人間でありたいと思う。

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