思考力

spelling every day those days...,

日々綴ル...

一時期、職にあぶれていた頃、ブログを作っていた。当時、SNSは浸透しておらず、自己発信の手段として、ブログを書くことが流行っていた。

誰が読むのか解りもせぬまま、日々の日常を書き記す。世界との接点がなくなりつつあった自分のブログは、いつしか誰ともなく向けられた機関銃のような「愚痴」で埋め尽くされていた。

アクセス数が伸びていることを期待し、いつしか眠り込み、大して増えていないアクセス数に苛々が募る。誰ともなく誰かとの繋がりや、接点が欲しかったのだろうか。いや、他ならぬ自分の存在を確認したかっただけだったのか。いや、それ以外ない。「ポエム」というジャンルに投稿し、自分の痛みを吐き散らした文字が並んでいる。それを読んだ人は、どんな気持ちだったのだろう。

 

リンクにリンクを重ね、ある詩人のブログにたどり着いた。素人の詩人。つまり、ブログを公開したところで、なんの収益にもならない。そこには、見返りを期待しない、“pure”なハートのカタチの文字が、重ねられるように描いてあった。

文字と文字の間に、文字があるような不思議な詩。書いている文字は、自分と全く変わらない日本語。だが、異質。いや、比較にならない異空間の“絵”。背景の絵と、文字のフォント。さらに、文字の数、改行バランスなど…。そこには、決して縮まる事のない自分の汚い文字の羅列との距離を感じ、何を基準に、「勝ち」「負け」を決定することはない勝負に、「負け」を認める以外なかった。

日増しに、その人のブログが更新される日々に「悦び」を感じるようになる。文字しか見えていないその人への憧れ、想い、やがて「支え」ができていた。会ったことのない人に、文字だけで支えられている。でも、本人には、支えている感情など少しも湧いていない、見返りを期待しない、透明な文字ばかりが並んでいた。ただ、それだけは、事実だった。

文字の配列の繊細さは、途方も無いほど、深くて暗い世界に沈み込む。意識の問題、自分への悔恨、諦念…。透明な文字に載せられた詩の中には、圧倒的な表現力があり、掠ったような浅い気持ちで、文字を並べているだけの自分を愕然とさせ、恥ずかしい醜態ばかりが、自分のブログに記録されていることに気づいた。

ブログを閉鎖して、もう何年も経つが、たまに、その人のブログを訪れる。輝いた文字は、変わらずとも、当時ほどのインパクトは、もう無いようだ。自分が成長した証だと想っている。

受験日まで、あと少し。あと少しだからこそ、しなやかに考えること。透明なてっぺんに向かって、ひとつひとつ、砂をつみ上げるような気持ちで。あと少しだからこそ、人としての思いやりを忘れないで。そして、言葉を大切に。見返りを期待しない透明な気持ちと、湧き上がる熱意を感じられれば、それは、もう「合格」でいいと想っている。その詩人が、プロフィールで紹介している動画が、それを物語っている。『The Power of Words』。がんばろう。

 

<ここまでは、オリジナル講座で配布した最後の授業のプリントになります>

 

 

<ここからが、今回の記事になります>

 

ワインとナッツ。とにかく忘れたかった。情熱を燃やしていた教育業界にも、変なプライドで自己顕示欲を満たそうとしていたことも。寒い寒い夜。ナッツをワインで飲み干していく。カラの瓶が、床に転がっていく。自分も倒れたいという気持ちを、かろうじて支えてくれていたのは、彼女が描くブログだけだった。あまりにも、深く、重い。一文字ごとに、どれだけの責任感と緊張が、のしかかっているのかが伝わってくる。文字を追えないのは、ワインのせいではない。むしろ、ワインで麻酔をかけながら読まないと、自分は、たった一記事をも読めなかった時もあったかも知れない。顔も、本名も、何もかもわからない。そんな彼女に救われていた。

大恥を曝け出した、自費出版一作目。多くの批判を浴びた。今でも、消したくなるような過去だ。ただ、実は、自費出版で2冊目を小説にして出版している。30部だけの記念作品。そこに登場する女性は彼女であり、主人公は、自分だった。ただ、全く掴みどころの無い彼女を描写することは、ひどく困難だった。できるだけ、自分の投影を主人公に任せたところで、主人公自体が、ヒロインの影を追うばかりで、全く追いつかない。出版して、読み返してみたが、全く抽象的で、筋書きなんて見出せない駄作に終わった。

では、なぜそんな本を出版したかったのかを紹介してみよう。詐欺まがいの契約で書いた1作目の本の借金に追われ、追われ続けて、様々なトラブルが続く酷い時期があり、そんな時に、かろうじて自分を支えていたのが、他ならぬ彼女のブログだった。1作目の醜態を晒した本の紹介ブログを閉鎖し、さらに新しいブログを、ひっそりと作っていた。そのブログには、一切苦言を吐くことなく、コミカルな記事ばかり書いていた。一部の可能性を込めて、彼女のブログにダイレクトメッセージを送った。来るはずも無いと思い込んでいた彼女から、返信が来ていた。そして、彼女へ、感謝の想いを伝えるメッセージを贈り、透き通るような返事が返ってきた。どんなことがあろうとも、この返信だけは、消すことのできないよう、一冊の本のラストシーンに、一字一句変えずにヒロインからのメッセージの締め括りとして、遣わせてもらった。それが、ひっそりと書いた2冊目の小説の目的だった。動揺していた自分を救ってくれたのは、彼女からの「言葉」。言葉は、人を傷つけ、言葉は人を救う。諸刃の剣があることを強く感じた。

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自分自身が受験生だった時も、自分が受験生を送り出す立場になった時も、入試直前に、人の気持ちが渦を巻き、動揺していることを隠せていないのは、全くもって、当然なことだと感じた。もし、軽い気持ちで落ち着いているのであれば、今までの努力は、偽物だったのだろう。志望校合格は、人生の小さな通過点に過ぎない一過性のイベントだけれども、それに対して、誠実に向き合ってきたのであれば、直前期には、どんな人でも緊張する。ヘラヘラしている者や、怖気付いている者は、論外として、この直前期に、人は、2種類に分かれる。一心不乱に、集中力を高めて、目標に向かって突き進む受験生は、もちろん、とても誠実だ。ただ、何かの拍子に、不安と緊張が襲いかかってきて、身動きが取れなくなる者も、少なくない。受験に限らず、ある程度の期間、ずっと定めてきた目標の直前まできた時に、どのような心構えと、どのような思いを張り巡らせるべきなのだろう。

私は、自分の教え子たちには、直前期だからこそ、今まで積み上げてきた学習に、さらに柔軟な思考力を働かせ、自分の「人間性」を高めようとする者であって欲しいと思う。ここで、自分と向き合うだけの心のゆとりを持てる者は、強い。この時点で、スランプという、直前期に襲って来る得体の知れない怪物に食い殺されることが無い。自分と真摯に向き合っているということは、外部からの奇襲が入って来る余地が無くなる。自分を静観し、やがて、自分自身を、天から見つめているように、精神を落ち着かせられる。受験だけではなく、何か大きな目標を決め、その到達点の手前で考える力こそが、真の思考力なのだ。

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