思考力

好敵手だった人

 

それにしても、サーフィンというのは、とことん難しいスポーツである。今日は、夜明け前の4時前に家を出て、車の中で仮眠をとって、海岸で日の出を待ち、いざ目の前の海を見渡せば、とても人間が入水できるコンディションではなかった。車を南下させ、他のポイントをチェックするも、ほぼ同じ状態。台風のウネリを考えて予想した、アプリの「波情報」というのは、やはり当てにならない。昨日の予想では、今朝はグッドウェーブのはずだったのだが、見事に外れてくれた。昨日は北上して入水したポイントが、もはや混雑してポイントパニックになっていたから、今日も再び同じポイントへと向かう気力は出なかった。だから、夜を明かしたポイントで、10分程度スケボーを蹴って、今、帰宅してブログを書いている次第である。

服の断捨離をする上での考え方のコツとして、若い時の服は、急に似合わなくなるという「引き算」の考え方があるのだが、私の場合は、服に限らず、サーフィンにおいても、同じように興味をキープできている。そのような若い頃の勢いを継続していなければ、一気に老け込んでしまいそうだ。こう考えると、私の人生では、一生、波乗りやスケボーや釣りやファッションに興味を持ち続けることになるはずなので、死ぬ間際に後悔する事も少なくなると思う。ただ、結婚や安定した仕事を取らなかったので、そこに対して後悔するのかもしれないが、今の私の考えでは、それらは、私にとって「負債」でしかないので、お財布状況を除いて、現状に不満はない。

自宅で感じるカフェ。車の中で感じるカフェ。わざわざ、高い金を払ってまで、カフェの実店舗に行かずとも、Wi-Fiが飛んでいて、その電波を拾ってくれる空間があれば、私にとって、そこは最高に居心地の良いスペースとなる。もはや、自室でヨガマットで寝ていた経験もできたので、車の中で眠ることにも慣れてきた。日々、終息に向かいつつあるコロナの新規感染者数の数字。マスコミの弾きだす数字が、視聴回数稼ぎのものでなければ、来年の今頃には、マスク生活からも解放されているはず。今は、そのことを考えるべきだ。ただ、家と車で過ごす時間がほとんどの私は、極めて感染リスクが低い。だから、コロナ終息を祈ることくらいが、私のできる事であろう。

こんなに自由で、ゆとりのある暮らしの中、今までの人生が、どれだけ縛られていたのかが分かる。まるで、コロナ禍の飲食店のような厳しい生活をしていた。閉塞感ばかりが募り、自分の人生を深く考えることすら赦されなかったようだ。年を重ねて、いざ自由を手に入れたときに、後悔ばかりが残るような人生であってはならない。死ぬときに一番金持ちであってもならない。総入れ歯になってから、ステーキを頬張れなくなっても意味がない。稼いだお金を使えないほど、足腰が弱っていても仕方ない。だから、今の自分の生活は、未来の自分への投資の意味も込めている生き方をしていると言えよう。

高校生の時に、自分の人生について考え込む日々ばかりだった。思春期から青年期にかけては、まさに自分自身を「孤高の人」だと思い込んでいた。今考えると、自分のことしか考えていなかった、青臭い生き方と、自分勝手な考え方をしていただけだったのだが、高校で使っていた教科書よりも、公園の高台で考え抜いた自分との対話の方が、よっぽど多くのことを学べていた。これは、今振り返っても自信をもって言えること。だから、悲惨な高校時代を過ごしつつも、当時、とことん自分自身を分析をしていた自分は、自分の中の自分という「大きなライバル」と、悪戦苦闘していたのだと思う。

もし、高校時代に戻れるというチャンスを与えられ、リクエストされたとしても、私は拒否する。もう、あんなに苦しい時期を繰り返すのは、真っ平ごめんだ。肉体が若返っても、自分と向き合うことが、あんなにも苦しいと知っているのだから。今、いろいろな科学的研究において、「アンチエイジング」の方法が試されているが、年を取らない1番の方法というのは、過去の栄光に囚われたり、過去の苦しみに足を引っ張られたりすることなく、限りなく尊い「今」を充実させることに専念することのはずだ。そうすれば、未来のより良い自分が、きっと今の自分を歓迎してくれるのだから。

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