思考力

冷ややかに方向を変えた温もり

昨晩、かなり遅くに電話が鳴った。最近まで音信不通だったが兄と、数週間ぶりに電話で大きな口論となったのだが、昨日の着信は、外でもない「兄」の名が、私のスマートフォンに表示されていた。嫌な予感が走る。揉め事の続きなのか、もしかすると「あの事」なのか。予感は奇しくも後者だった。やはり、夜中にかかってくるくらいだから、そちらしかないという予感が正しい。入院中の母が、危篤状態の寸前にいて、コロナで面会謝絶だったのだが、「もしも」のことがあったときにだけ「面会」を許されていた。その「もしも」であった。

動揺していないフリをしつつ、やはり、病院へ行くときの持ち物がイマイチ分からなくなり、財布を忘れたかと思いきや、エコバッグを持ち、スマホはそのまま机の上に置いたままだった。何度、玄関の鍵の開け閉めをしたのか思い出せないが、やはり車の中では「もしも」のことで頭がいっぱいになる。何故か、その日に限って、私の車の古いカーナビも、いつもと違うルートを示していた。今考えても、カーナビも私の心情になったのかもしれない。

Navigation im Wagen zeigt die Richtung zu Diesel Umtauschprämie

Japanese woman in a car

道は、険しかった。私の住む街は、一見すると華やかだが、少し走ると一気に街灯がなくなる。すると、知らぬ道が峠となったときに、全く方向感覚が掴めないまま、それこそ、私と同じく動揺している「カーナビ」の指示通りに走っていくしかなかった。やはり、その道中に涙が溢れ出た。道は、ひたすら病院へ続いているのだが、何やら酷く遠く感じた。ハイビームにしなければ、道のワインディングも見抜けないくらいだが、涙で滲んでさらに視界が悪くなっていた。

幸い、私が到着すると、母の意識が鮮明になって、久しぶりに実物の母の顔を見ることができた。入院してからは、コロナの影響で、「オンライン面会」しか許可されていなかったのだ。とりあえず、私の家庭の様子をよく知っている親戚に連絡をすると、次の日に駆けつけてくれるとのこと。安心した帰りの道は、明るい道を選んで、やけに早く帰宅できた感覚だった。波乗りへ行った後の疲れと、久しぶりに流した涙のおかげで、疲れがドッと溢れ出て、そのままグッスリと眠りについた。

目が覚めると、着信履歴に「兄」の名前が表示されている。嫌な予感が走る。夜をこえて、再び病状が悪化したのか。これを簡単に見極める方法は、やはり、私から電話をかけるべきだ。それ以外の方法で、これからの私の動きを見極めることはできず、ゆっくりと「通話ボタン」を押した。病院から連絡が入ったが、命に別状はないということで、今日から再び面会謝絶になったと言う。ただ、それだけではなかった。それこそ、音信不通だった妹と会うことができ、こちらに向かえるということだ。私が、一時期、警察に生存確認までした程の妹。いわゆる「8050問題」。うちの年齢でいうと、高齢出産だったということもあり、「8040問題」だ。余計厄介であり、さらに深刻さが増す。

最近の「フライングブログ」。翌日の朝に、Jazzを聴きながらブログを書けないかもしれないので、前の晩に書いてアップしておく。そうすることで、翌日の予定が詰まっていたり、急用が長引いたり、肉体的・精神的疲労で描けなくなったりするのを防止するための保険だ。今回は、まさにそれが功を奏した。今日、車を修理に出し、親戚と会う予定を全てキャンセルし、何年ぶりになるのだか全く回想できないほどの期間を経て、兄弟と再会するわけだ。ブログのことを考えていたら、大切なチャンスを逃していたことだっただろう。今、話が終わり、ヘトヘトになっているが、明日の保険をかけるために、さらに1日前倒しにしてブログを書いている。

ここまで、今日の様子をライブ中継するかの如く書き綴っていると、私が完全否定している「私的な雑記ブログ」になっている。ただ、これ以上大事なこともまず無いだろうし、ある意味では、千葉に引っ越してから、一番厄介な問題が動いたということで、今日の日付で残しておきたい。だから、ここまで書いた。もちろん、ここまで読んでくれている読者の方など、極めて稀であり、ほぼ100%の離脱率の中で、こんな私的なことを書いているという自覚はある。つまり、誰にも見せない秘密の日記を、自社サイトのブログに書き残している。乗りかかった船。このまま筆を走らせていこう。

こういう風な大きく事が動いた後に、やけに滑稽なニュースがクローズアップされていると、他にやることはないのかと、呆れるどころか、その視聴回数を見て驚いてしまう。私的なことではあるが、今日の私にとって、アライグマだったか、何かの動物が、屋根に突き刺さっているニュースなどは、極めてどうでも良い。ただ、それを遥かに行き過ぎて、思わずクリックしそうになった。救出した男性の証言と私の人生には何の接点もないことから、私の限りある時間の希少性を考えて、左クリックは封印しておいた。

ただ、そんな些細な出来事であれ、古代メソポタミアの神話であれ、やはり、自分にとっては関係がない。特に、自分の親兄弟が危機に迫っているのか、大きく前進しているのだか分からぬ状態で、世間話やトリビアに裂く時間は無い。それならば、今、グーグーと鳴っている腹の音を、どうやってコスパよく健康的になだめられるかの動画を視る方がいい。ただ、これに関しても長編動画なので、この記事を書き上げたら、コンビニに行ってドカ食いのち、風呂に入って寝る方が「今」の私には、ベストとはいえずとも、ベターだ。

ここまで私的なことであっても、こんなダラダラとした駄文を書いている私が、日本国民が知らないような謎を解き明かせるような記事を書くことはできない。そして、それを知って調べたブログで発表したところで、何が動くわけでもない。あえて言うのなら、私の腹の「グーグー音」の感覚が短くなる程度。今は、どんなに美味しい耳寄り情報であっても、今は、目の前にドーパミン垂れ流しになるような「コンビニの毒」を平らげた方が美味しい。順番としては、今だけは、自分の身の安全の確保の方が重要だと判断している。

こうやって、自分の損得ばかりを考えていると、私がいかにこの文明の毒に毒されているのかが分かる。急発達した文明の中で、人間は多くの進歩にカラダが追いつかず、身体の多くの箇所に故障を抱えることとなった。こうやって自分のノーミソが、自分のことで一杯になっている状態で、自分のことしか考えられていないのだから、本当の自分を見定めようとしたところで、文明病とも言うべき「視えざる悪魔」から脱却することもできていないのだから、当の本人など見つけられるはずもない。

では、自分を、いや、どんな生物に対しても嘘をつかない唯一のこととは何だろう。それは、「自然」。自然が嘘をつくだろうか。もっと言えば、自然界の嘘が思い当たらないので、「今」の私が考えられるのは、嘘をつくのは「人間」だけだ。すると、漏れなく嘘つきの私は、自然の中で癒されることを求める。まさに、これは自然なこと。そうなってくると、やはり自分にとって身近にいる海に助けを求めよう。すると、サーフボードとウェットスーツを玄関に置いて、眠りにつくことが最善の策。そして、明日は、ブログのことをモヤモヤ思い出すことなく波に乗れるのだから、今日の疲れはなかったことにしてグッスリとコアラの温もりを…

 

なんてタイミングなんだ…。「コアラの温もりを」。で、とんでもない電話が…。今日も眠れない…。

 

 

 

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