思考力

闇に宿る

今日は、ブログはおろか、外出も控えようと思った。窓も開けず、とにかく眠りたかった。とはいえ、人間は睡眠の後には覚醒する生き物であり、いくら嫌だとは言え、死んでいない限り、覚醒して生きなければならない。大学3年の一番どん底の鬱状態の時には、とにかく「仮死状態」を形成すべく、徹底的に横になっていた。それで、二度三度、眠れた時などは、地獄の中で天国を感じられるような、なんとも表現し難い気持ちになっていた。

一昨日から、昨日にかけて、東京に一泊したものの、全く眠ることができず、ふらふらのまま千葉へ戻り、とことん眠れると思いきや、全く眠気が来ることもなく、不安で不安で仕方のない夜を過ごした。真夜中のフラッシュバックというのは、本当に苦しい現象でもあり、やっと眠りに落ち、目がさめた数秒後に、強いフラッシュバックが起こってしまった。だから、今日はとことん眠っていたかったのだが、過食をして睡眠を促すべく、食糧を買いに車のエンジンをかけた。ただ、品定めやゴミを出したくないという理由からか、ピザ屋に行って、カロリーの塊のようなピザをテイクアウトして、そのまま家で平げた。結局は、デリバリーをすれば良かったのかもしれないが、やはり、何らかの防衛本能が機能したのか、日差しを浴びるという行為を飛石することはできなかった。

一昨日から昨日にかけての出来事は、とても多く、普段とは違ったことが多かったのだけれども、それを改めて文字にすることも気が引けるし、そもそも、昨日はブログを更新するという気力さえ起こらなかった。もはや、生きる気力というのが、灰となってしまったかのようだ。突風にさらされる前に、何とかして自分の手で灰をかき集めなければならない。そうでもしなければ、あの思い出したくもない大学生の頃の底なしの鬱の地獄へ叩き落とされてしまいそうだ。

こんなフラッシュバックに苦しめられている具体的な要因を、あえて挙げるとするのであれば、この書き上げてきたブログの動画を、文字起こししてユーチューブ動画にしてアップロードしたことなのかもしれない。記憶に頼った時期的なことを考えれば、やはりそれが一番思い当たる節でもある。自分の書き上げてきた文章というのは、やはり自分の過去の改装に基づいていることを書き連ねたものであるのだから、過去の自分が、さらに過去の出来事に対して構成した内容になっているわけで、そんな記事を再度読み返せば、書いた時の記憶と、その書いた内容の記憶という、2つの過去の入れ子構造に、動画を作るときの自分は苦しめられてしまうことになる。これは、自分にとっては、とんでもない苦痛を伴う作業なのかもしれない。今の心身の絶不調というのが、この動画アップロードなのだとしたら、そんな自傷行為なんていうのは、積極的に辞めるべきなのかもしれない。

自分は、恵まれた環境で何不自由なく育ててもらった。だからと言って、自分の心が強かったわけでもない。むしろその逆だ。忙しい親に、自分の気持ちを話したら、とても悲しませてしまう。そんな気持ちが先行して、自分の抱えていた苦しい現状を、絶対に言わないようにしていた。それは、幼心に決めていたことだった。自分のために懸命に働いている親を、絶対に迷惑をかけることはできない。だから、外部から受けた出来事は、自分の中で辛抱強く隠し通し、時が経つのを待ち、そしてその荒波が過ぎ去った時に、初めて自分の心の平穏さを取り戻せたことに安堵する。そんなことばかりを繰り返していた。

今、自分のフラッシュバックを考えてみても、その場で爆発することなく、自分の中で忍耐強く構えていて、それが時と共に、忘却の彼方へ消えていくことを、本能的に願っていた。でも、今の自分は、まさに眠るという仮死状態すら許されていない状況だ。果たして、こんな状態ばかりに苦しみ、やがてこんな嫌な出来事が、今後も積み重なっていくのであれば、時の中で自分の生きる時間を重ねることは、とても困難なことに思えてくる。生きることに深い苦しみを感じながら、生きる歩を止めることができないという矛盾。そんな気持ちの分裂した状態を、自分はこれからも抱えて生きていけるのだろうか。自分の中の葛藤の狭間で、自分はどのような隠れ家を見つけられるのだろう。

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