思考力

消えぬ願望

目が覚めた。マットレスの横の床には、大量のお菓子の袋が、散らばっている。またやってしまった。絶対にやってはいけないこと。二度寝する。とにかく長く眠る。もう眠気はなくなったかと思えば、正午を軽く回っていた。立ち上がり、汚れたトイレにようを足す。ポケットに手を入れれば、昨日の夜に絶対にやってはいけない行為をしたレシートが見つかり、自分の行いが現実に行われたということが立証された。もはや、眠ることと食べること以外は、自分にとっては全く興味がなくなってしまい、抜け殻というよりは、早く抜け殻になってしまいたいという気持ちばかりが空回りしている。

人生で一番ひどい鬱状態を経験した頃、まだインターネットなどは普及していなかったし、自分の内面を客観的に見出すためには、日記を書くくらいしかなかった。それに、もはや文字を書く事はおろか、指先を動かす事すらもできなくなりつつあった自分にとって、苦しみをシェアしたり、世界でこんな悲惨な状態に陥っているのは、自分だけだという孤立した状態に、もはやなす術を失っていた。あの状況で命を保っていたことが、今思い返すだけで「奇跡」だという他はない。椅子に座っていられないというとんでもない現象が身体を襲い、自分に許されたことといえば、ただひたすら横になることと、眠りを待つことだけ。そして、唯一の理解者であった母と二駅程度歩き、そこで胃袋がはち切れるほど食べ、タバコを二箱買って、酒を浴びるほど飲んでいた。こんな毎日を繰り返し、もう3桁に近づこうとしていた自分の体重を支えていたのは、一体何だったのだろう。

昨日、ずっと部屋の中で巣篭もりし、夜までYouTubeを観ていた。それで何とか自分を楽にさせたり、笑わせることだってできた。それと比較させると、ただひたすらに自分の暗い部屋で横になり、溜まっていく薬の袋ばかりを見つめていたあの頃。自分にとって支えとなるものというのが、ただの生存本能だけであったのならば、人間というのは非常にタフであり、それがいったん崩れ去ってしまうと、再起するのがとてつもなく困難な生き物と変わり果ててしまう。今の自分が、当時の自分を見て、とんでもない苦しみの渦中にいたのだと断定できるのだから、当時の自分というのが、信じられないほど悲惨な状態だったということがよく分かる。

久しぶりに窓を開け、空気を入れ換えた。腰を痛める前は、毎日継続できていた掃除と風水だったのだけれども、今はもう前に屈むことすら困難になり、膝を曲げるだけで痛みが走る。若き日の自分の精神状態と、年齢を重ねても精神的にもろく、しかも加齢に伴った身体的な痛みまで抱えるとなると、やはり自分の寿命が、じりじり刻みに縮んでいるということを、どのように受け止めていけばいいのだろうか。もはや、自分自身が自分という存在の価値など測れるわけもなく、まだ日がのぼっているのに、カーテンを閉め切って、真っ暗な部屋の中でキーボードを弾いているだけ。

今、東京のど真ん中で、自分を買ってくれる男を待ちぼうけしている若者が増えている。検挙しても、それをすぐに防止するのは難しいだろうし、昔の「援助交際」という交わりが、ただ時代の経過によって名前が変わっただけだとも言える。お金が欲しいという気持ちよりも、自分を受け止めてくれる人の存在を確かめることで、他の誰でもない「自分」の存在を確かめたいのかもしれない。世界中で、とんでもない感染症が蔓延り、マスクをつけて生活することが、数年の間、当たり前の日常となった。でも、その規制が緩和され、マスクを外すことが日常になりつつある今、本当の心の防御壁というのは、取りきれていない若者も多いのではないだろうか。少なくとも、自分を買ってくれる自分を待ち続けている人の声を聞きたいと願う人の気持ちは、どこかで必ず「隠れたい」という願望があるはず。

それを具体的に考える自分の余裕は、今のところ全くないけれども、かつてどん底を経験した自分にとって、やはりその過去そのものを消し去りたいという気持ちは強い。それでも、変えられない過去というのに、私はどのように向き合っていけばいいのだろうか。それは、これからの課題であり、消えることのない任務なのかもしれない。

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