思考力

想い叶える

日付が変わってしまったので、このまま記事を書いて、明日の朝の仕事を終わらせてしまおう。入眠困難という厄介な症状。これは、午前中に起きられても、日中にひどい眠気を催すので、運転などは、非常に危険なのだ。最近は大きなニュースになっていないが、一時期は、精神薬や眠剤を服用している人から、免許を剥奪しようという動きさえあったくらいなのだから、その当事者としては、体調を整えるという前提で、安全運転を心がけたいと思う。

昨日は、母の納骨で、東京に行った。兄と義姉と甥っ子二人に会うのも久しぶりで、甥っ子の方は、すっかり大人びていた。向こうからしてみれば、こっちはすっかり老いてしまったと思っていたのだろうか。さすがに、納骨の寺で大騒ぎすることもできず、最近の様子なども聞けなかったのだが、やはり自分としては話したいことが多くあったので、とても寂しかった。昔、親戚のお婆さんが、こちらの家族が帰ろうとしていたときに、必死に止めていた気持ちが理解できた。

しかしながら、「犬猿の仲」という言葉がよく表しているように、兄弟間の仲は最悪であり、最終的には寺の門の前で声を荒げるような事態に発展してしまった。何とも、母には申し訳なく、また他の参拝者の方たちにとっても大迷惑であり、罰当たりな行為をしてしまった。でも、それほどまでに深い溝があり、さらに幼少期からのトラウマ、また、最近のフラッシュバックなどが重なってしまい、自分を制御することが困難だったことも事実だったのだ。

世間では、「ブラックフライデー」なるイベントセールが、大々的に開催されていて、元々はアメリカ発祥のイベントが、また日本に飛び火してきたような流れ。世界の経済の6割を米国が占めているのだから、やはりアメリカの経済が活性化する時期にあわせて、日本が同じように盛り上がるのも、ある意味では自然なことなのかもしれない。こう考えると、私の気持ちが昂っていれば、相対する兄の機嫌も悪くなる。これもやはり同じ対比構造がみられるわけだ。こんな記事を書きながら、昨日の出来事と、今日のセールイベント、さらには米国と世界経済、日本の関係なども織り込んだ記事にまで繋げられたのだから、私の文章力というのも、なかなか上達したのかもしれない。

ネットサーフィンをしていたら、金持ちそうに見える外車という記事があって、一見すると500万以上しそうな車だが、実際の中古車では100万円台で購入できる車が特集されていた。その記事を見てから、一気に車に対しての購買欲がメラメラと湧き上がってしまい、結局、3時間程度のネットサーフィンに明け暮れてしまった。まさに、日が暮れて、どっぷりと深夜を迎えてしまったのであり、これならば、病気からくる不眠症ではなく、怠惰な生活を送っていることが原因の単なる怠け者に過ぎないのだろう。

物は、見せるために買うのではなく、使うために買う。これは、買い物の基本ではあるのだが、やはり承認欲求というのは誰しもが持っているものであり、さらに今の自分にとっては、軽快に車を飛ばすことが何よりの生きがいになっているのだから、やはりおしゃれな車というものに対して、アンテナが立ってしまうことも、ある意味では健康なことなのかもしれない。本当に、鬱のどん底というときには、何もかもに興味がなくなり、死を乞うことしか考えられなくなる。実際、極度のうつ状態の時には、まさしく指先を動かすのも苦しいときさえあった。それを思い出すときには、必ずそばで何も言わずに支えてくれた母のことを思い出す。何も言わず、ただただ二駅以上離れた駅へ向かって歩く。それを毎日継続してくれた。その時間を待つことだけが生きがいの時期もあった。あの散歩は、今では自分の命を救ってくれたのだと思っている。やはり、それを考えると、母の存在には心から感謝していたし、今、納骨された母のことを思えば、気持ちを穏やかにしなければならないと、心から実感する。

鬱の時に一番辛かったのは、母だったのだと思う。当時、表情がなくなり、1分に5回はため息をつき、薬の副作用で椅子にじっと座れないという地獄に苦しんでいる息子。そんな我が子を見ているというのは、親にとってどれほど苦しいことだっただろうか。今、私は仏様となった母を思うときに、いつもいつも我慢ばかりしていたというのに、それを一切口に出さず、見返りを決して求めない母に、もう一度あって、感謝の言葉を捧げたい。ただ、それはどんなにお金があっても、時間があっても叶わぬこと。私が日々を大切に過ごし、それを継続しながら生きて、同じ極楽へ導かれたときに、私は心から母に「ありがとう」と伝えたいと想う。

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