思考力

解放するためのシール

アクセルを踏み込む。ふと悪い記憶が蘇る。ただ、これから海辺へ向かおうとするときには、サーファーとしての本能が疼くのだろうが、気持ちは踊っている。駐車場でひとっ走りするときに、何かその日の調子が分かる。板に乗る前から、すでに気分の不調が体へ伝わっているようだし、何となく駐車している車の間から、根拠などないのだけれども、障害物がひょっこり顔を出すような気がしてならなくなる。実際、今日は日曜日で、小春日和。いつもの最寄り駐車場はもちろん、お気に入りの景色のいい駐車場も、かなりの混雑ぶりだった。波乗りの時と同じく、やはり混雑というのは、強いストレスを人間に与えることは間違いない。

最近では、パソコンを観るのではなく、プロジェクターの光を壁に映してYouTubeを鑑賞している。壁に投影される細かな文字は読みにくいけれども、全体像を映し出す動画は、壁一面に映し出されるわけだから、とても強い迫力を感じる。だから、小難しい投資や精神医学の動画よりも、必然的に、細かな「動き」を映し出す、サーフィンやスケボー の動画を観るようになった。波乗りを断念せざるを得なくなった自分にとって、オススメ動画にサーフィンが表示されると、とても気持ちが萎えてしまっていたのだけれども、今となっては、再び自分の心を回復させてくれる画像となっている。

運転中は、フラッシュバックが強い日が続いている。ただ、スケボー の調子が上がっているときに、過去のトラウマに支配されることはない。なぜなら、仮に余計なことを考えて意識が逸れて仕舞えば、硬いコンクリートに打ち付けられてしまうのであり、腰を悪くしていると言うのを差し引いても、やはり自己防衛本能からか、動作に関係のないことを考える隙はない。むしろ、コンクリートの斜壁に、波を思い浮かべてターンをしているので、その気持ち良さは格別だ。そんな時ばかりは、自分がサーファーだったこととか、それを練習していたときに鍛え上げていたスケボー能力に感謝する。

何回骨を折ったかカウントするのも難しく、慢性的な痛みとの付き合いも続いている。ターンを繰り返して擦り減ったタイヤの数は、もはや思い出そうとすること自体がナンセンスだ。だから、このような夢中になれることが、自分の中に存在していることそのものに、感謝をすべきなのだと思う。もちろん、自分はお釈迦様のような広い心を持ち備えているわけでもないので、車に戻れば、一気に、フラッシュバックが襲いかかってきて、加害者を追い込むときのセリフや暴行などを考えている。やはり、せせこましい自分だと思いつつも、それが結局は、人間の佐賀なのかもしれないと思うこともある。

明日、腰の精密検査をする。コルセット生活から解放される日は来るのか。そして、慢性的な症状で苦しんでいた膝の関節や、首の関節、股関節など。今まで積み上げてきたダメージを、ゆっくりと癒す年齢になったのだと思う。こうやって、身体的な負荷を取り除いてあげることで、自分の心の呪縛も、一生に切り取っていけるのなら、それに越したことはない。でも、一度刻印された火傷を、元の通りに再生させることは不可能なので、時間という絆創膏を貼って、その経過で溶けていく悪い記憶を、追憶しないで生きていこうと思う。

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