思考力

光の条件

悪くない夢を見て目が覚めた。久しぶりに首都高を運転していたのだが、目的地とは逆の方向へ進んでいた。到達した場所で思いもかけぬ人と出会えたというのは、夢ながらラッキーだった。とはいえ、今年は特にPTSDかのごとく、過去のトラウマとともに輪郭までくっきりと思い出せる人間の顔を思い出し、心が痛んだ年でもあった。Macの電源を入れてから、ブログを書くまでの間にも、その人間の顔が頭から離れなかった。こうなってくると、明日の初夢は、富士山も鷹も茄子も出てくれそうにない。明日は元旦なので、とりあえず恐ろしいキャラは、出てほしくないものだ。

断捨離に関しては、ほぼほぼ成功しているが、どうしても過去に創り上げたオリジナルテキストの処分に困る。シャレで買った授業でのウケ狙いの小物も捨てがたい。やはり、教える仕事に大いに未練があることは確かなこと。しかしながら、今年のワーストワンの出来事である「頭蓋骨骨折」の入院中のリハビリでは、今後講師の仕事は完全に諦めることを宣告された。また復帰して、誰かに知識を与え、それを育むことはできなくなってしまったのだろうか。

ただ、現実はそこまで酷ではないようで、リハビリ病院へ転院することもなければ、自分の足で立てなくなったわけでもない。ご覧のようにキーボードを弾く手だって見事に動いている。強いていえば、脳挫傷の部分は一生消えないが、それが今後何らかの悪さをする可能性もないようなので、そのまま放置しておけば良いくらいの気構えでいよう。ネガティブに考えることに、何らメリットはない。

よくよく考えてみれば、このブログを本格的にスタートさせたのは、2020年の大晦日。つまり、2年以上、欠かさずにブログを書いたことになる。確かに、入院期間中だけは書けなかったとはいえ、それは強制的に書けなかったのであるから、結果は上出来であるし、このままブログは続けていきたいと思っている。そしてこのブログは、絶対に誰かに「魅せる」ためのブログではなく、未来の自分に対する「遺書」のようなものでなければならない。1記事ごとに思いを馳せて書いている。最近は、ヤドカリニートの生活に可憐なイベントなどないのだから、やはり内面の葛藤を書いてしまうようになる。これを読み返すのは、弱い私にはむずかしいことだ。

来年は、どんな年になるのだろう。自分の中では、光に包まれた年になる予感がする。もちろん、誰もがそのように願っているものだが、私には強くその光が見える気がする。少なくとも、ヤドカリが甲羅から出てくれば、眩しいことしか目に入らないのだから。

-思考力