思考力

良きを用意しない

強いストレスがかかっているのだろう、賭け事や過食の勢いが止まらない。後者に関しては、どんな人でも経験があるのかもしれないが、前者に関しては、なかなか理解されにくい問題である。もはや、これらの依存症について、あれやこれやと議論を深めることはしない。ただ、前者であれ後者であれ、当の本人にとっては地獄の苦しみであり、自業自得などという訳のわからない四字熟語で、説教されたくもない。依存症というのは、脳にこびりついた傷跡と、一生付き合っていかなければならない、とても深刻な状態に陥ることなのだ。

雨が降っている。かなり強い。こんな時は、毎日日課にしているスケボーをしたくても、できないということで、スケボー 愛好家にとっては、とても辛い状態になる。今であれ、三代あるスケボー を、いろいろな形に改造して乗っているのだが、このチューンナップがとても面白く、ある部分のパーツを変えると、見違えるほどライディングバランスや進むベクトルが変化する。ある時に、自分でも信じられないほどの弧を描くセッティングが完成すると、板のポテンシャルを発揮できる可能性というのは、無限に溢れているのだということがわかる。

今、かつて受けたいじめや虐待のことを、酷く思い出してしまうことが、よくある。このようなことは、自分の人生の足を引っ張り、強いエンジンブレーキをかけることになってしまうので、本来は避けなければならない。ただ、強くて深い衝撃を受けた抑圧なのであれば、どんなに昔のことであっても、決して許さないのが、私の考え方なのだ。さぞかし心の器に小さい人間だと思われるのだろうが、事実なのだから、仕方がない。ただ、このような怨念であったとしても、もっていないよりもっていた方がいいことだと思っている。自分の人生の妨害をしたような輩に一矢報いたいという気持ちがあるということは、それは、やはり自分の中の大切な、触れてはいけないゾーンを踏みにじられたことになるのだから、決してヘラヘラしているわけにはいかないのである。

結論をポジティブな状態で終わらせようとしても、やはり憎しみのことを描き続けると、なかなか上手く文章をまとめられない。雨が降っているとは言え、もっとしっかり自分の「書き手」としてのスキルを上げていかなければならないのだろうか。いや、筆の向くままに描いていた方が自然ではないだろうか。毎回毎回、自分の道を考察して偽の解決を用意するより、自分の中で、いまだに進行中の心のもやもやした部分を書いていることだってある。文章に自由な部分があるとするならば、責任を持って自分の感情を整えつつ、辛いことは今でも辛いのだという曲げられないトラブルを書くことだって、許されるのではないだろうか。そんな考え方は、あながち間違っていないはずである。

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