思考力

線を引きながら平穏を保つ

今、ルンバが仕事を終えて、充電ステーションへ戻った。目が覚めたときに、目の前の工事現場の工事が始まった。みな、仕事を開始した。私とて、今、こうやってマックの電源を入れて、キーボードを弾いているのだから、仕事開始といったところだ。とはいえ、仰々しい仕事ではなく、極端にいえば、やってもやらなくてもいい仕事だし、とりあえずボケないようにするためにも、指の体操程度はやっておいた方がいい。ここ数日、やはり人間と会話をしていないので、果たして日本語を使いこなせるかは不安なところだが、とりあえず、日本語でブログを作成できているので問題はないと思う。

現在、けたたましい音を立てて、目の前の地盤の掘り返し作業が行われているのだが、それは別に構わない。そんなことにいちいち文句を言っていたら、山奥で暮らせとも言われそうだし、今のアパートは、とても気に入っているので、快適性から騒音を引き算したところで、有り余るくらいのお釣りが来る。ところが、昨日、そうでもない問題が起こったことも事実なので、少し書き記しておこうかとも思う。

昨日、車を出す時と入れるときに、目の前のトラックが邪魔で、何度も何度もハンドルを切り返さなければ、アパートの駐車場へ入庫できない状態だった。目の前は、普通車が二台通れるくらいの道幅なので、トラックくらいの車幅が車庫の前にあると、私のコンパクトカーであっても、ギリギリの角度からの車庫入れとなってしまう。このようなケースが数回あり、昨日は特に酷かったのだが、毎回、作業員がいるにもかかわらず、「すみません」の一言もないのだ。確かに目が合っているし、それならば、手を止めろとも言わなくていいが、一言挨拶が欲しいところ。それすらできない人たちというのは、やはりマナーという点に関して、非常に疑問と不快感が残ってしまう。

今も、大きな騒音を立てて工事をしているのだが、このような態度をされているわけだから、その音もイライラの増強に加担するわけで、昨晩も今朝も、このことがきっかけで、フラッシュバックが起きてしまった。これは、自業自得とはいえないと思う。ただ、これをさらに相手の不手際だと決め付けてしまえば、やはり「他因自果」という悪い行いに結びついてしまう。昨日、車の中で、YouTubeから流れる「アンガーマネージメント」の動画を聞き流しながら考えていたのだが、やはり怒っていい場所というのをしっかりと見極められないと、自分の精神に支障をきたしてしまうことは確かなことで、そこの線引きというのは、非常に難しいと知った。それに、先天的な性格というものも、強く結びついているので、それを容易に可能にするということは、とても難しいのだ。

最近強く考えている、自分の中にあるもう一人の自分という存在。多くのアニメや映画、ドラマでは、このことがテーマの基盤となっているケースがほとんどだが、やはり人間の心というのは、そのような「葛藤」を礎にしていることは事実であり、そのような気持ちの変遷というのを、いかにして押さえ込むかというのは、人生における大きな課題の一つなのである。こうやって、毎日綴っているブログのテーマのほとんども、雑記ブログの中でさえ、そのような追求の意味合いが含まれていることが多く、文章の中にそのような探究心というのを宿していなければ、文字を書き連ねるということに、意味がなくなってしまう。

結局のところ、誰かに表現することや、例え表に出さない秘密の日記であっても、それは自分を含めた誰かに書いた手紙のような代筆であり、それは音楽でも絵画でも、彫刻でも、その世界の中では、確かに探求した別の自分への進呈物であるはずなのだ。自分のタスクだけを遂行できればいいという単純な気持ち。現場の近所迷惑を考えないで作業を続ける人たち。結局のところ、自分の行動を省みることができない人たちというのは、その行動の先に苦しんでいる人を、気づくことさえなく過ぎ去っていくことになる。

そして、そこに取り残された人には、強いストレスと苦い記憶しか残らない。これをどう受け止めるかというのは、なかなか難しいし、これと言った完璧な打開策というのもない。そして、このような日々の小さなストレスの積み重ねというのは、知らぬ間に自分自身に大きな重荷となってのしかかってくることは間違いない。そして、相手に不快なことをして去っていった者たちの行く末に不幸を願うことに、心の小さな弱い自分を発見してしまう。ここで、やはり自分の中のアンガーマネージメントの境界線の引き方の難しさを気づくことにもなるのだ。

-思考力