思考力

答えず黙らせる

まどろむ。朝の光を浴びながら、寝返りを打つ。これは、何とも快感な時間だ。朝の半覚醒の状態ながら、長く眠れたことに安堵する。深いとは言えないながらも、長く眠れたという達成感はあった。アップルウォッチの睡眠計測では、コア睡眠が、7時間近くあり、十分な長さだとわかる。全体でも、10時間程度眠れたようだ。睡眠時間とか深さに関して、まだ正確に測定できているのかはわからないが、この最先端の腕時計を使いこなして、どんどん身体をアップデートしていきたいものだ。

今日は、曇り。それでも、睡眠が快調なのであれば、それだけで心は晴れる。毎日、睡眠負債のことばかり綴っているのは、やはり自分の病気が、睡眠状態と相関関係にあることが要因だ。だから、毎回、私個人の睡眠に関する記載ばかりになっているのだが、それも、この後の記事の布石や伏線になっていると思って、見守ってもらいたいものだ。元は、個人的な雑記ブログを書いて披露するようなことはしないと決めて作り続けていたブログなのだが、もうすぐ3年経ち、1000記事以上作成していれば、その趣旨も変わっていくのは当然だと自分を納得させている。

寝る前に、自分の気持ちを紙に書き殴る。これも、最近始めたのであるが、何となく体裁を気にしていたり、誰に見せるともないメモ書きに、理性のブレーキが働いてしまい、心を書ききれていない。もっともっとひどいことを書き殴ってしまいたい。ただ、それをしていると、自分の心が惨めなものになってしまいそうだ。それでも良いから書き殴るのは心の平安を取り戻せる行為なのかという不安は、やはりつきまとう。過去に危害を与えたものたちへの怨念を書くという行為に制限を設けているというのは、人間としての優しさゆえなのだろうか。

昨日は、人間と会話をしなかった。とはいえ、自分のスマホから出てくるYouTuberの声を、ずっと車の中で耳にしていると、その感想をぶつぶつ言っていれば、その情報をシェアしている気持ちにもなるので、取り立てて深い寂しさを感じることもない。人は、悲しみに慣れる動物なのだろうか。英語講師としてのスキルは、どんどん失われているのかもしれないけれど、そんな喪失感に対しても、慣れてしまうのであれば、このまま人というのは、様々な能力を退化させ、それにすら気づかないで老いていくしかないのだろうか。それを考えると、やはりとても寂しい気持ちにもなってしまう。

昔から、何かに対して怒りの感情を受けたときに、そのような考え方もできるという気持ちで、「相手」を許してしまうことが多い。相手が、そんな卑劣な行為をしたのだって、自分の落ち度に対して怒っているのだから、自分の行いを反省するべきだという、何とも気弱な態度が出てしまう。車を運転していても、とっさにクラクションを鳴らすことができないこともある。クラクションを鳴らしてひどい目にあったトラウマもあるし、クラクションを鳴らさなくても、きっと相手が気づいてくれるだろうという気持ちが先行してしまう。ただ、それでお互いが不利益を被ってしまうのであれば、やはり自分の気持ちというのを、しっかりと表現しなければならない。これは、自己愛だけではなく、お互いの関係を円滑にするという意味で、欠かせないことなのだと思う。

今日は、どこの駐車場でスケボーを蹴ろうか。正直、まともに階段を下りたり、ベットから立ち上がるのがしんどいくらいの膝の痛みなのだが、やはり、今の健康的な身体と、前向きな気持ちは、広い駐車場の上に放出した自分の心の解放から生まれたものだ。だから、身体の痛みには耐えられる。無理をしないというのは、大切な考え方だが、無理をしないということばかりが頭を先行してしまい、無理にやりたいことを封じ込めるのも本末転倒のような気がする。理由など「風が気持ちいいから」というだけで良い。それ以上聞かれたら、「それ以上の理由はない」と答えておけば良い。それでも何かを追求して尋ねられたら、その場を離れるか、一喝して相手を黙らせておけば良いのだと今は思う。

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