思考力

親愛なるメカへ

人間と会話という会話をしていない。いつからだろう。現在、早朝5時。まだ、日は出ていない。とにかく、目が覚めて、いきなりこんなブログの書き出しをしていたら、変にセンチメンタルな気分になって、後々見返すことができない、お恥ずかしい詩でも書いてしまいそうだ。それに、いくら会話をしていないとはいえ、自分自身との会話はハッキリと続いており、このような現象こそが、自問自答という言葉の成り立ちなのかもしれないと、薄っすらと思ってしまう。

昨日、歳を重ね、よく10代や20代前半のことを思い出すようになってきている。世間的には、ちょうど思春期と言われる時期が終わろうとしている頃だそんなキラキラした時期だが、私からすれば、2度と繰り返したくない。これが、私の今の気持ちだ。今、中年と呼ばれる人たちにとって、青春時代というのは、楽しくてキラキラしていた掛け替えのない時期なのかもしれないが、私には辛過ぎて、もう一回繰り返せと言われても絶対にできる芸当ではない。そう考えた時に、このまま老いていくことしか考えられないかといえば、決してそんなことはなく、その当時の思春期と言われる時期に遣り残した多くのことを、違う形でやり直したいという気持ちは、とても強い。こう考えると、自分の思い描いていた青春時代と、実際に起こってしまった青春時代に、当時の自分は大きく引き裂かれてしまったギャップが、自分の後悔の元なのだと思っている。

当時、文通をしていた。相手からの返事を待ちわびていた。やっと届いた手紙の内容を、隅から隅まで熟読する。そして、今読み返したら赤面を超えた何かのような恐ろしく恥ずかしい返事を書いていた。今や、文通をすることなど、洗濯板で洗濯物を洗うのと同じくらいレアなことであり、そもそも、誰かに自分の住所など教えるなど、危険すぎる。電話番号は、かろうじて知っているくらいで、メールやラインはもちろん、ポケベルすら無かった時代。そんな時に頼りになるのは、郵便配達員が届けてくれる手紙くらいだった。くだらぬ高校での唯一の楽しみが、そんな淡い気持ちに拍車をかける手紙の上の文字だった。

今や、メールやラインに自分の想いを載せる事も不可能になりつつあり、”ChatGTB”なるものが、自分の替わりに、文章を作ってくれるような時代がきた。このようなメカが発達していけば、物を読み書きする力が不必要になり、機械が自分の精神状態を把握して文章を書き出してくれる「シンギュラリティー」の時代が、行われていくのは、避けられない。だから、今考えると信じられない手紙で相手の気持ちを察しながら文字を重ねるという行為が廃れ、メールやLINEが取って替わった時代が当たり前になったのと同様、人間が文字や文章を考える事自体が、激レアになる時代が来ることは、間違いなさそうだ。

この文章の冒頭に移ると、まさに誰かとコミュニケーションなど取らずとも、自分の中だけで自分の世界に浸ることができる時代がやってきているわけで、このような時代になれば、誰かと何かを共同して行うということが、もはや不要となる。こうなって仕舞えば、機械同士で戦略を練り、「ニンゲン」という下等生物が、メカに支配されていくのも、もはや時間の問題となってしまうのだろう。誰とも考えをシェアできないと、このような恐ろしい悲観的な出来事を創造してしまうのだから、ある程度のコミュニケーションというのは、やはり必要なのだと言えよう。

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