思考力

にじんでひかる

 

仮に、自分の身体が大きく、言葉を取り次ぐことがなくても、自分の状況に応じて少し声を荒げて腹立ちを表現したり、怒りの感情を表現するのに顔の皮を縮めて鋭い目をするだけで、相手が萎縮するような肉体的な力量があるがとしよう。そのような場合、自分の腕っぷしをどのように使うだろうか。ジャイアンのように、力で相手をねじ伏せれば、自分の勢いに相手が圧倒され、強い影響力で周囲のあり方を自在に操り、取締ることだってできる。スネオのような世渡り上手が、勝手に胡麻を擦って利益を運んでくるかもしれない。そのうち、シズカちゃんが、その強さに惚れ込んで寄ってこようものなら、自分は動くことなく周囲の役割分担をして、指示だし命令、最後に受け取る利益は自分の得分。「お前の物はオレの物。自分の腕力を乱用すれば、「オレの物はオレの物。お前の物はオレの物」という彼の名言が、見事に成立して採算が合う結果となる。

ただ、仮に私がプロレスラーのような肉体的パワーがあったとして、それを存分に振りかざすことができるかと言われれば、実際にはそうでもない。やはり、気の小ささは隠しきれず、やはり周囲の御機嫌を損ねないような考え方や、弱々しい言動になってしまうだろう。生まれ持った性格とか、成長過程で出来上がったコミュニケーションの取り交わしなどを変えることは、容易なことではないし、下手に変えようとすれば多少なりとも無理が生じ、どこかの場面で歪みが出る。

私は、中学校一年の時に酷いイジメに遭い、毎日受ける暴力を「暴力」で跳ね飛ばすために、ボクシングジムに通ったのだが、結局は相手にパンチを与えることなどできなかった。今考えると、いったん感情が溢れ出すと、流れきるまで止まらなくなるタイプの私の感情の蓋がブッ壊れ、追い詰められて逃げ場を失ったネズミの怒りが大爆発するが如く、相手に肉体的致命傷を与えていたかもしれぬ。このように考えると、より良き人生の方向へと歩む際、正しい人生の中で自己克服するというのは、非常に重要であり、最終的に人間が目指すべき到達点は、力で相手を征服するのではなく、相手を優しく許す「心の器」を広げるということなのではないかと私は思っている。決して、戦争的な発想を身につけることではダメなのだ。

昨晩、年賀状のやり取りだけになってしまった友人とLINEで連絡を取ることができ、久しぶりに電話をすることとなった。大学時代に知り合った友人で、身長187センチ。ガッチリとした丈夫な身体つきだ。身体が大きく変化したのは、中学生の頃だったそうで、大学生の時にはスポーツジムでバイトをし、そのまま正社員になるほど、恵まれた肉体を更に鍛えていた。今現在でも、その肉体を鍛えるが如く、空手と合気道に勤しんでいる。仮に酔っ払いが彼を挑発して、彼も酒が入っていて乱闘にでもなったら、無知な酔っ払いは、新歓コンパでアルハラを受けた新入生が酔い潰れる如く、致命傷を負って地面に横たわることになる。

彼は、自分を感情の起伏がある人間だと思っていて、キレやすいながらビビりやすいと自己分析している。そのような自分の心に余裕をもたせる為に、武道をやり、自分の肉体と同時に、精神的な面での鍛錬もしているそうだ。先ほど書いた通り、人間の到達点が、自分の心の器を大きくするという私の考えを基準とするなら、彼は着実に人間として誇るべき生き方をしている。では、そのような彼が、実際に怒りに震えて、それを必死に抑えている様子を見たことがあるかと言えば、全くそんなことはなかった。初対面の時は、確かに身体は大きいといえ、物腰の柔らかい雰囲気だった。だから、私の印象は、力持ちで、いつでも穏やかにしている「ドカベン」のような様子だった。大学時代に、よく酒を酌み交わしていたのだが、実際に当時の彼の考え方や過去に関して知っていることは少なかった。逆に、彼はいつも私の功績を認め、褒め称えてくれる優しさがあった。

やはり、人間は、年を重ねると話す内容も変化し、今までの人生を振り返り、それまで積み上げてきた経験や後悔、そして未来に進むべき方向性や可能性を語るようになる。そのようなこともあり、当時から口下手だった彼の話を落ち着いて聞くことができた昨晩の電話は、時間を重ねて歩んできた彼の人生の軌跡と、その時間の中で変わりゆく彼の今の意識を知ることができた素晴らしい機会だった。家庭の事情で引越して、新しい環境に適応しづらかったこと。中学生から高校一年まで成績優秀だった彼に対しての母親の期待が大きくなるにつれて、そのこと自体が重くのしかかってきたこと。やがて、当時主流の考え方であった、就職に有利な学歴をつける目的の為に大学に入学したこと。改めて具体的な過去を聞いた。

大学一年の時に新聞配達をして親の資金に頼らずアルバイトをし、その後は、スポーツジムで働くが、やはり、そのような世間の流れに従うように入った大学では、勉強に身が入らず、一年留年して卒業した。今になって本当に後悔していることは、学生時代に勉強しなかったことだと言う。でも、私から言わせれば、たしかに大学で勉強をしなかったことはもったいないし、学歴ためだけを目的に大学に行くことはよくないと思う。当予備校の「打算的な勉強ではなく、思考力をつける為に学習をする」という考え方からは漏れている。ただ、彼は自分の心と向き合い、周囲の多くの友人たちを助け、支え続けていた。私も多分に漏れず、学生時代に自分の私生活の愚痴を聞かせ続けてしまっていたし、自分の自慢話ばかりを話し続けてしまっていた。それでも、彼は言葉で表現できずとも、しっかりと耳を傾けてくれていた。本当に情けないのだが、卒業して連絡が取れない時期が長かったのだが、一時的な金銭的援助もしてもらった。これに関しては、本当に申し訳なく、情けないことをしてしまったと反省しているし、二度と彼にそのようなことはさせまいと思っている。その後、彼と年賀状のやりとりをしつつ、細々ととは言え、線がつながっていて、昨晩の電話ができた。

昨晩、どうすれば、自ら積極的に優しく自然と陰ながら、相手を支えられるのかを尋ねてみた。答えはとてもあっっさりとしていた。「自覚がない」。それだけ。自然と行われる普段の自分の言動が、無意識に誰かを支えて救っている。つまり、意識せずとも優しさがにじみ出ている。たとえ、力で相手をねじ伏せたところで、周りに集まっているのは、本心を隠しただけの薄っぺらい人間ばかり。陰で何を言われているのかわからないし、そもそも本人が自分の陰口を言われていることすら気付いていないだろう。そうなってくると、残酷さが無意識ににじみ出る。

充実した人生とは、何なのだろうか。もちろん人それぞれ異なるということは確かなことだが、人生の中で絶対に避けられない人間同士の大切な絆を持てるかどうかが、特に重要ではないかと私は強く感じる。人間は孤独な生き物だ。でも、それを支え合って生きていけるのも人間。だったら、絶対に失ってはいけない「優しさ」を心に秘めておかなければならない。そして、自分が存在しているだけで相手に幸せを感じさせられるような人間になれれば、こんなに理想的なことはない。

彼は今、法律の知識をつけて社会で活躍することを望み、その目標を「宅地建物取引士」の資格取得として定めた。友人と会話をしている時に、自分が主体的に活躍できる場所を求め、1日だけ不動産屋の仕事の体験から決めたことらしい。正直なところ、まだまだ闇が多い不動産業界に入る理由を訊くと、借主と貸主の間でのトラブルを可能な限りニュートラルな状態で契約させたいと言う。彼のような誠実な人間が、この業界を明るくしてもらいたいと思う。今まで勉強をしてこなかったことを、とても後悔している彼が今、宅建の資格を取る為に、仕事の合間を縫って猛勉強している。彼にとって学ぶこととは何かを尋ねると「可能性を広げること」だと答えた。ありきたりの言葉なのかもしれないが、若い頃に勉強しなかった彼が、今まさに勉強に打ち込み、未来の可能性を広げているから、とても深く心に残った。

そして、当予備校の理念である「脱偏差値教育」を再考する為に、彼なりの「偏差値」に対する考えも訊いてみた。偏差値は、合格できるかどうかのモノサシ。その物差しの数値が要領よく上がる人もいれば、逆の場合もある。大人の資格試験は、やろうと思えば何回でも挑戦することはできるかもしれないが、入試に向けての勉強での偏差値が上がらず、これだけ頑張っているのに上がらないという若い人に一種のトラウマのような傷を与えてしまう危険性があるのではないかと心配していた。

確かに十代半ばから後半にかけての貴重な時間を、受験という枠組みを意識して勉強し、自分の努力の成果が周囲と違って劣っているなら、焦る気持ちも出る。私も、指導者として現場に立ち、多くの受験生を見てきた。やはり、すんなりと一回で理解できる生徒がいるのとは逆に、何回説明しても理解できない生徒もいる。これは、受験勉強に対しての地頭の問題にもなってくる。偏差値が上がらないで、反抗的な態度をとる者も数えきれないほど担当し的た。でも、そのような教え子たちだって、できるようになりたいと思って教室に来て努力しているわけだし、どんな人間にだって他よりも秀でた才能を秘めている。これは間違いない。偏差値というのは、単に受験勉強をする上で、他の受験生との成績の相対評価ではじき出される数字に過ぎない。決して、人間性を測る訳ではない。

 

どんな人間であれ、学ぶ姿勢を崩すべきではない。人間が誇るべき存在である為には、しっかりとした思考力と論理的に物事を考えられる能力が不可欠。そして、今日のテーマを考えた時、そのモノサシとなるのは、偏差値ではなく、周囲から得られている信頼や自然と周囲へ配ることができる優しさではないだろうか。

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