思考力

時間のスプーン

揃わぬ”7”に、イライラしながら例の建物を出ると、自転車では帰りにくい雨が降っていた。車で”7”を揃えにくる人たちの中、自分はガタガタと震えながら、「寒い寒い」と念仏を唱えて自転車を漕ぐ。今日は、風呂に入らないで、そのまま寝てしまおうというほどの財布に穴が空いたにもかかわらず、風呂に入らなければ、凍えて固まってしまうかのようで、そのまま風呂へ沈没した。

今の物件のオーナーに、退去の旨を申告。この1ヶ月間で、このアパートとも別れなければならない。別れは出会いの始まりだともいうが、次の物件が見つかっていない状態での退去申請ゆえに、今後の不動産選びには、極力慎重にならなければならない。実際、何らかの引き合いの力、仏教の言葉で言えば「ご縁」があり、東京の英語専門塾に採用され、そことの繋がりが強くなっているがごとく、今のアパートの契約満期が訪れたのだった。そういう意味で言えば、やはり、自分の中にある、何やら第六感的なパワーが、今の私を動かしているのかもしれない。

昨年死にかけて、今は見事に復活した。入院中のリハビリでは、もう講師業は復帰できないと断言されたが、そんなことは全くもってアテにならないことを、自分自身が証明しているようにしたいものだ。いわゆる「マックジョブ」と言われるような、教えられれば9割以上の人がマスターできるような仕事に対して、私は残りの10%に入ってしまうようで、実際に、ナマポの足しに始めた牛丼屋でのバイトも、三日坊主で終わってしまった。そのように考えると、割合とか確率というのは、あくまでも目安であり、そこに希望や絶望を見出すことそのものが、ナンセンスなことなのかもしれない。

意識を取り戻した「HCU」で、暗い病室の心電図の音だけが聞こえる空間で、もはや自分は歩くことさえもできなくなってしまうと弱気になったりもしたが、自分の弱気や勇気にかかわらず、時間は動いているのであり、やはり、人生というのは「なるようになる」のであり、「なるようにしかならない」のだと思う。そのような考え方しか持てない自分は、やはり、信仰や宗教的なアプローチは難しい。すべては「時間のみぞ知る」としか考えられない。特に、今の自分は、そのように強く想う。

膝の具合が悪く、都内の大きな大学病院で検査をし、さらに細かい検査をしたいのであれば、どこかでMRIを撮って再診に来なさいと言われたが、地元の病院でそれを打ち明けたところ、そもそも痛みが引きかかっている状態でMRIを撮り、ただの捻挫だとしても大学病院に行ったところで、捻挫は写真には映らないのだから無駄というようなことを言われ、妙に納得してしまった。この納得感というのは、今の自分の「時間」の流れの考え方に似ているからなのだろうか。

30日後には別の住処でブログを綴っている。その時の自分に、何らかの手紙を書いたとしても、何も変わらない。時間カプセルなんていう概念は、もはや、今の私には通用しない。こうやって、寝る前にブログを綴っていると、書く時間帯で、書く内容そのものが変化しているのが分かる。すると、時間の流れではなくて、深さや密度に、自分の思想というのは影響を受けるのかもしれない。そして、その思想を元に、自分の行動が選択されるのであれば、やはり、自分の動きと「時間」、時間というのは、多面的な意味での深さによる「変化」によって、生き方というのは変化していくのだと思った。

この記事を、目覚めて読むと、どのように感じるのだろうか。「夜中」に書いたラブレターのように感じるのだろうか。ほら、やはり、体験的にも「夜」「朝」「昼」で、自分の気持ちや考え方が変わっていることがわかる。これを、今後の記事の中に少しずつかき混ぜて入れようかと思った。

-思考力