思考力

年齢を重ね、深く意味を知る。

今、このブログを書き始めるのに、かなり時間がかかった。相変わらず早朝覚醒気味で、愛機MacBookの前でウトウトと眠り込んでしまっていた。愛機も節電スリープモードになっているのだから、2人の呼吸は噛み合っているようだ。いつもならば、閃いたことを熟考しつつも、一度アイディアが浮かんでしまえば、カタカタとブログを書く指先が、Macのキーボードの上を走るのだが、今日はそうもいかなかった。それでは、何の話をしようか。「念の入った言葉」の話でもしよう。

今日のように、イマイチというか、なかなか思うように書く内容が思い浮かばない時は、大抵の場合、自分の納得のいかない文章しか書けなさそうな時だ。最近では、Twitterでも同じようなことが起こっていて、自分のツイートに「一呟入魂」の気持ちでツイートをしようと意気込むあまり、何もツイートができなくなってしまった。もちろん、「ラーメン食った」などと言うくだらない呟きをするよりマシではあるが。

言葉は、生きている。そして、人を殺しもするし、助けもする。私自身、この上ないほど辛いことを強く言われ、今でも深い傷跡として自分の心に痛みが増すような言葉もあったし、かつてブログをしていた時は、拙い愚痴を「ブンショウ」にして吐き出していた。一部の人に、そのコトバたちは、反感を買うこととなり、今でいう「炎上」のような状態にもなった。かつての私のブログが、炎上するほど規模が大きくなくて良かった。

逆に、ある言葉がピンと閃き、自分の行動が一気に良い方向へ加速することもあった。そのように、言葉に救われた経験は何度もある。私の師は、いつも言葉を大切にしなさいと言っていた。当時、10代だった頃の私は、言葉を大切にすると言うことの表面的な意味しか理解できていなかったのだが、40も半ばになり、このように毎日毎日、ブログを書き続けることで、本当の意味での言葉の大切さというのを実感している。最初の一行を書くことが難しかった今日のブログであれ、書くと言うモードに入ってしまえば、物凄いスピードでここまでの文章を書き綴ることができた。もちろん、生半可な気持ちで記事を書き綴った気持ちは微塵もない。魂が入るのだ。

文章に魂が入り始めれば、完成のスピードは意外と早い。基盤となる思考の森の完成が近づくにつれて、一気にその土台が固まり、上へ上へと言葉が積み重なっていく。もちろん、途中で考え込むこともあるが、やはり大抵の場合、私は自分の魂が乗り移った文章の書き上げの終焉を迎える時には、ピアニストがクライマックス局面で、アドレナリンを頭から噴き出させるような感覚で、一気に駆け抜けるように文章を仕上げる。そして、そのエクスタシーが、私を再度、書くと言う行為に結びつけてくれるのである。

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