思考力

左と右の中点連結定理

政治家Aが、選挙前の演説で「国民の税負担を減らし、雇用促進を図ります」と言うとする。逆に、政治家Bが、「納税額を3倍にして、国民は、国の負債の返済に努めるべきです」と言うとする。この二人の演説に対し、選挙後の当選は、政治家Aになることは当然と言えば当然だ。Aは、いわゆる「左」で、Bは、いわゆる「右」と表現されることもある。日々の生活を、心穏やかに、ゆったりと前向きに幸せに生活するのであれば、やはり負担が軽くなる状態で、仕事や勉強に打ち込みたいものだ。私は、「左」でも「右」でもないが、最近の税金の徴収システムの不平等性や、その徴収された税金が、コロナの深刻な議会で居眠りをしている議員の口座に振り込まれている事実からも、やはり「左側」に票を入れる。

人間は、空気が3分なくなると窒息死するが、水があれば30日程度は生き延びられるというデータもあるので、深刻なコロナの答弁の中、それを子守唄にグースカとイビキをかいている議員の鼻と口を2分59秒ほど塞いで、孤島に流し、水だけを29日間、“Uber”で運んでやるのも悪くない。ただ、運ぶ人の送料が別途上乗せされることと、「水」という地球の大切な資源を運ぶのは、もったいないので控えてやることとしよう。ただ、そんな「糞ニンゲン」の悪口をこれ以上書いても、タイピングしている私の指の運動にもならないので、話題を「緊急事態宣言解除後」の話としよう。

あったのかなかったのか。千葉外房で、電車にも乗らずに生活している私にとっては、あまりにもユルイとしか感じられなかった「二度目」の緊急事態宣言が終わった。ただ、私が毎日利用している「しゃぶしゃぶ店」を含め、飲食店だけは、モロに被害を受けた状態であった。百合子ちゃんが、指示に従おうとしなかった「外食チェーン店」から訴えられ、その会社は「104円」の損害賠償を求めて都と闘っている。金額を見れば、お金の問題ではないという姿勢が、しっかりと分かる。

Close up set of japanese food shabu shabu sushi on table

日本を含め、ほぼ全ての先進国は「法治国家」でありながら、解釈が曖昧であり、政権の法律の解釈が微妙であるがゆえに、事あるごとに、「法治国家でありながら〜」と批判されることもしばしば。居眠りG3の出した決議案で、守られるべき国民の自由と権利が、民主主義という平等性を実現できたと言えるのだろうか。こうなってくると、冒頭の選挙後の結果は、「政治家A」が完璧に当選となるのも疑わしくもなってくる。「左」という概念は、「右」という存在があるから成立するわけであり、「右」を完全否定することは、やはり偏見や対立の引き金となる。

薄汚いBarで、ウダツの上がらぬ冴えないオヤジ連中が、「仕事を頑張っても報われない」と言い、「政治が悪い」と言って、あまりよくわかっていないウケウリの演説が始まる。バーのマスターや、小料理屋のママだって、仕事にプライドを持たずに愚痴愚痴言っている、自称「政治評論家」の未来を見据え、我関せずと心で呟きつつ、そんな客の体内にアルコールを注入しているわけだ。客はそれで満足でも、客の肝臓はたまったもんじゃない。やがて、世界の不幸を自分独りが背負って歩いているような顔をしてガブ飲みし、肝臓も胃も心も病んでいく。『空腹こそ最高のクスリ』というが、そのような負の思考が、様々な病気を引き起こし、お財布に穴があいて、強制的に食べ物を買えなくなっていったらどうするのか。そうなれば「最強のクスリ」になるのだから、放って置くのが優しさと言えよう。

いくら「日本オワコン」とSNSで叫び続けていても、それだけでは絶対に何も変化しない。他人を変えることはできなくても、自分を変えることはできるのと同じなのだから、世界全体を変えることはできなくても、自分の視点を切り替えるのは、今、この瞬間からでも可能。自分の愚痴を聴いてくれる相手を捜して、「なぜ誰にも伝わらないんだ」と嘆いていても、それは各自が解決すべき問題であって、あくまでも、最終的な自分の人生の解決策や意思決定は、自分自身で行わなければならない。それに、誰かの指示通りに動いて失敗したとしても、その責任は自分で取らなければならない。だから、「原因自分論」という当たり前の論理は、肝に銘じておかなければならない。

誰かが「日本オワコン」と叫んでいるのであれば、そこには「賛成」と「反対」の意見が存在する。ただ、ここで「2種類」しかないと決め付けるのも、賢くない。会社側が「副業」を奨め、こちらに残るか否かは各自に任せると言って迫ってきたとしても、「両方」を選ぶことだってできる。そして、今、そのような「両生類」のような働き方を、積極的に採り入れて生きていこうとしている人が、自分のプラットホームを確たる基盤としている。続々と、芸能人がYouTubeで情報を発信している中、それを指を加えて観ているだけで、羨望の眼差しとともに「ゲーノウ人だから」と皮肉まじりに言っているだけでは、「飲み屋で悟りを開拓したオジジ」と同レベル。スライムだって倒せやしない。

観るだけでは、決して人生は変わらない。これは、どの時代でも同じであり、今後も絶対変わらない「真理」だ。ノルマを与えられて、淡々と時間の切り売りをしているような状態では、機械に仕事の「機会」をアッサリと奪われる時代が、どんどん近づいてきた。せめて、そこから「逃れる」というアクションは、必要最低限の努力として、起こさねばなるまい。もちろん「金と愛の両立」とか言って、大金叩いて女の子と遊びまくる生活を送ることを目指すわけではない。自分の価値を高め、個人の戦闘力を高め、人生の幸福度の尺度を明確に把握すべきだ。

今、下手に住宅ローンを組めば、普通のサラリーマンが返済を終えるのに、70歳を超えると言われている。それまでの肉体的・経済的パワーを保てる自信は、少なくとも私は持てない。そもそも、口座の残高よりも、自分のプラットホームにいる“ファンの数”が重視される時代になったと私は感じている。それは、現時点での私の考え方であり、否定される筋合いはない。私の中の価値観は、もちろん変化することもあるだろう。ただ、自分の軸が、ケースバイケースでブレているというわけでもない。私が求めている軸というのは、自分の「心の中の平和」をかき乱すことだけは断固として拒否するということ。「平和との共存」という観点で考えると、私は、多分に漏れず、「左寄り」と言えるのかもしれない。

 

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