思考力

大樹と胎児

目が覚めてから、取り立てて書くこともなかったブログを書き、そのまま特記すべきようなこともない1日が終わりそうだ。だから、今、記事を仕上げてしまって、明日の朝からは何も予定がない完全フリーの状態にしておこうと思った。自分の場合、ブログを作成するということを除いてしまえば、その時点で1日のほぼ全ての用事が完了するので、このブログ作成という作業というか、執筆活動というのは、大げさであるとはいえ、自分の生活にメリハリを与えてくれる神聖な行いだとも言える。

今日も天気が悪く、冷たい雨が降っていたので、スケボーを蹴りにいくこともできず、ブログを書いた後にやったことといえば、ホームセンターで、日用品を買ったことと、家具専門店で、どんなに頑張っても布団が中で丸まってしまう布団カバーの代替品を買うことくらいだった。ついでに、小さめの観葉植物を買って、空席となっている小さなハンギング型の鉢に入れてあげようかと思っていたのだが、やはり荷物が多い中で、新しい仲間を迎える気にはならなかったので、日を改めて購入しようかと思った。

そんな買い物の中、お香を買った。昨日のお茶のお稽古の時に、香ばしいお香の香りが印象的で、1日一本程度のお香なら、部屋に染み込むほどの匂いにはならないだろうと思った。そんな中、ライターを買ったのだけれども、喫煙していた頃は、こんなライターなどに金を払って、消費税とタバコ税を納税していたのかと思うと、無知な過去の自分が寿命を削りながら政府に搾取されていた事に気づく。それをいい勉強代だと思って、過去の自分を反面教師として生きていこう。

最近では、強いフラッシュバックが来なかったので安心していたのだけれども、まさにライターからの小さな火がガソリンに着火して大きなほのうになるが如く、ふと過去のトラウマが暴れ出してしまって、脳裏をかすめたを悪い記憶が暴れ出し、外部から入って来る情報が、一切遮断されてしまうようなことも出てきた。因果応報とか、悪因悪果とか、善因善果とかいう仏教の考え方もあるけれども、なかなかそれを鵜呑みにして仏の心を得られるわけでもない。それに、自転車で大怪我をしたときに、私を呪っている誰かの怨霊が、自分を痛めつけていたのかもしれない。そう考えると、知らぬ間に誰かを傷つけてしまうというのは、とても恐ろしいことでもある。

千葉のブラック企業で授業をしていたとき、単科オプション講座を受講し続けてくれていた生徒たちを思い出すこともある。やはり、こちらの用意した教材をフル活用し、それを従順に消化してくれている中、信頼感が芽生え、やがてそのことがキッカケで、学力だけではなく、どのように生きていくべきかということまで考えてくれた人たちが多い。最後の授業までついてきてくれた生徒たちは、もれなくそれに当てはまっていた。

自分の考えを伝えるためには、それ相応の時間がかかる。やがて、その教えの中や意思伝達の中に、有意義な時間を過ごしているという自覚が芽生えれば、お互いの意思疎通が容易になる。そうなれば、もはや言葉が必要になる場面が少なくなっていき、やがて巣立つ時が来る。これは、師弟関係だけに当てはまるのではなく、友人関係や家族関係、恋人関係などの場面でも同じような弧を描いて伝わっていくものだ。最近では、まさに人生の折り返し地点の年齢から、過去と現在を対比させて物事を考えられるようになった。まだまだ未熟なことは認めるが、これは自分の中で、大きな大樹となる「年輪」を重ねていっているからに他ならないのだと思う。

自分にとって必要なこととは何か。それは、ときの流れのなかでまだまだ眠っている可能性を引き上げられる対象を見つけ出す努力なのかもしれない。そう考える事によって、ときの母体の中に眠っている自分自身の可能性に感謝すらできる。それが、自分の中の悪霊退散と、自己成長につながればいいと切に思う。まだまだ道は続いているのだ。

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