思考力

言葉で深まるアポリアー

眠気来ず。とりあえず、就寝前の薬を飲んだ後だったので、2回目の自転車転倒をするわけにもいかないので、歩いて牛丼屋でコッテリのハンバーグを食べた。そのコテコテ感をもう一つの睡眠薬がわりにしようとしたというのが、今回の夜食の魂胆であった。しかしながら、なかなかそんなに上手く眠れるわけがない。iPadから、焚き火がパチパチと燃える癒しのBGMを流しながら眠りを試みれど、待ち人である睡魔は来ず。フワフワと浅い眠りのなか、ふと焚き火パチパチの再生時間を視ると、2時間しか経っていなかった。現在、もはや諦めの状態で、少々ふてくされながらブログを書いている。ただ、コーヒーを飲まずに書いているのが、なかなか眠りの到来を惜しんでいるのだろうか。イヤ、やはりガンコが売りの私ゆえ、コーヒーメーカーに、粗挽きコーヒーをサラサラと入れて、水をドバッ入れ、沸騰スイッチを押してくることにしよう。

さて、淹れたて熱々の深煎りコーヒーが完成する頃に、ブログを完成させよう。昨日は、平日ランチタイムのみ「あら汁無料」という出血大サービスをしている寿司屋で、食べた金額をタッチパネルで支払い金額の確認しつつ、自分の胃袋の残りのスペースを無料あら汁で満たすために、どのようにすればお得かを計算しながら、ネタを考えて食べていた。この計算高いというかセコイ食べ方は、この店に来るときのお決まりの行為であるのだが、やはり何やら貧乏くさいというか、食事を楽しめない。ここのところ、懐具合が良いから、結構な贅沢をしているのだが、その分、今までの節約というより、貧乏グセが抜けない。寿司屋に行ったのであれば、値段よりも、次に何のネタで舌を満足させられるかを悩みたいところだ。

そんなこんなで、熱々で苦味とコクが出ているコーヒーの完成だ。それを飲みながら昨日起こったことを思い出すと、やはり私にとってシッカリと記しておかなければならない「猛者」のことを書いておこうと思う。寿司の会計を済ませた後、当然のように一人カラオケに行ったのだが、一番古い機種しか選択することができず、渋々それを今回のミュージックセレクトマシーンにせざるを得なかったのだが、それにはそれでラッキーが同伴していた。大学時代に、CDが擦り切れるのではないかというほど聴き入っていた「ハイスタンダード」のライブ映像が収録されていた。また、古い機種ならではの今では削除されてしまった曲を、多く歌うこともできた。

そうなってくると、新鮮な空気の中、平日の人気の少ないカラオケBOXで、独り優雅な熱唱ができた。歌詞とリズムのほか、その曲を聴いていた当時の記憶と重ねて歌ってみれば、「そんなこともあったっけ?」くらいのアッサリとした気持ちになり、ただ単純に腹式呼吸で割れない音を出すことに集中すると、その歌を作詞・作曲した人の気持ちが、フット自分の心に浮かぶ瞬間のような感覚が出る。カラオケでは、この感覚が好きで、この境地に達することができるのは、独りで自分の組み立てた曲順や、自分以外の人が絶対に知らない歌を気兼ねなく歌えるコンデションでなければならない。そして、昨日は曲選びの時に、何処かで囚われて牢屋に入れられているかのような人の、実に音痴な怒声に似た奇声のような耳障りな雑音が、響いていたことを思い出す。

そして、歌のクオリティー的に、そんな不可解な声とは、全くの正反対のベクトルに進む声が、壁を挟んだ隣のボックスから漏れていた。自分の真隣の部屋から、こんなに上手い歌が続出する。これは普通の人ではない。決してアマチュアではないはずだと、思いっきり素人の私が判断するくらい、歌声や声色やイントネーションが、一般人とはかけ離れていた。憶測ではあるのだが、男性の高齢者で、演歌ばかり唄う。そして、上手いこと表現させてもらえば、夏祭りの屋台のラジオから漏れてくるプロの演歌の声や、秋の神社での演歌大会の唄とでも言えよう。目を閉じて聴けば、赤提灯や出店の屋台が目に浮かぶ。おでんに熱燗があれば、最高の酒を呑めそうだったし、今、スタッフが熱々のおでんを持ってきてくれれば最高だろうにと思うほどだ。まさか、カラオケBOXの隣から漏れて聴こえてくる歌と唄声に、こんなにも魅了されるとは思わなかった。

このブログを再開するようになって、生活における活動も精神的な状態も、とても前向きで積極的になっている。Twitterは、難しいことばかりを書こうとして、背伸びした小言を発信してツイートを控えていた。でも、ブログを再開してからは、140字程度以内で、日常生活で起こった些細な出来事が、未来に待ち構えているはずの何か大きな物や、過去につながっているかもしれない古い記憶を刺激していないかを、文字にしてメモするようにTweet利用している。アンチやクソコメすら来ない私のSNSではあるが、Twitterは今の私にとって、生活で起こった事が、自分の時間軸のどこで作用しているのかを考える思考のメモツールでもある。ブログは、1日前に起こった出来事から、Twitterよりも長期の、生まれてから死ぬまでの時間軸で自分の中の自分の心を分析できるようにしたい。

人間は、言葉をもつことで、様々な苦しみをも同時に抱えることとなった。ただ、そのおかげで、二足歩行をするようになり、集団で狩りをして生き延びる事をするようになった。やがて、コミュニケーションのツールが必要となり、それがきっと「言葉」だったのだ。そして、言葉によって、人間は自分の思考から「思想」を抱くようになり、他者ばかりではなく、自分自身をも深く細かく分析する事ができるようになった。すると、人間は他者と対話をし、本を通して過去の偉人と対話をし、自分自身で書いた文字を読んで自分自身とでさえ対談し、「今の自分」を中心に、過去から今、今から未来へと縦横無尽に、より良い方向へつながっているはずの時間のベクトルを思索していく。ただ、自分の生きる方向ばかりのために言葉を遣うのではない。もっと複雑な対立し並存する感情をなだめつつ、解決できない難問と向き合っていかなければならないのだ。

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