思考力

書き伝えるエキストラ

 

ここ最近というか、もう1ヶ月以上、引越しに伴う「断捨離」についての内容のブログを多く書いている。それだけミニマリストというのは素晴らしい生き方だということを主張したいと思っていただきたい。ただ、物を捨てるのと、売却するのとでは、大きく意味内容が変わってくる。幸い、私の近所にはリサイクルショップがあり、そこにスーパーまで併設されているので、売却して得た利益で、食糧などの消耗品を買うと、とても高いお得感を得られる。ただ、売却して得た金額なんていうのは、まさに「二束三文」であるが、大きなものだと捨てるのにも金がかかるし、ごみ収集日に寝坊すればゴミが家に居座ることにもなる。だから、捨てる手間の削減だと思って割り切らなければ、やはりリサイクルショップでの売却はできない。あくまでも、次のユーザーへ「寄付」をするくらいの気持ちでいなければダメだ。

査定額を計算してもらっている待ち時間では、やはり店内をウロウロすることになるのだが、大方の人が、デザインだけで購入したとしか思えないような「欲」の残骸のカタマリが、ズラリと並んでいる。ほとんどの国民が、いつまでマスクをしていなければならないか、もはや待ちくたびれてイライラする気もなくなっている状態で、地味なステイホームをしている。やはり巣篭もり生活の中で、自分の部屋の周りを見渡すと、多くの人も過去の自分の欲望の渦がグルグル渦巻いていることにも気づくようで、週末のリサイクルショップの待ち時間は、とても長い。

デルタ株なんて新しくて感染力が強いウィルスが出てきているのだから、もはや透明なヘルメットをかぶって外出した方が、お互いの表情が分かり、健全で安全な社会ができるのかもしれない。因果関係こそ不明とは言いつつも、モデルナ製のワクチンを接種した後に、2人も死亡するというのは、やはり死因とは全くの無関係とは言い難い。もし、そのワクチンの接種が原因なのであれば、コロナの重篤化を防ぐために接種したワクチンで死亡してしまったというわけであり、完全に本末転倒の結末となってしまう。政府の「謝らない・認めない」という姿勢が、どこまでもつのか分からないし、何十年後かの歴史の教科書に、実は因果関係があったという記載が出たところで、全くもって遅いのである。

そんな不安定な世界情勢の中、やはり正しく考えて効率的に動くべきこともあれば、やれば確実に利益になることもあるわけで、リサイクルショップに行って売却したところで、せいぜい1,000円くらいにしかならないであろうパソコンの機材を、重い腰を上げてメルカリに出品したら、たったの1時間程度で、あっさりと売れてしまった。しかも、1万円。桁が違うとはまさにこのことであろう。このコロナ禍での苦境というのは、自分だけが苦しい状況に追い込まれているのではなく、世界中の人々が、新型コロナウィルスという脅威に苦しみ喘いでいる現状であり、どんなに頑張っても自分ひとりの力では変わらない。だから、なんとかして、自分の中の不安を解消するための人生の道標を読み取る技術も必要となる。多少の手間暇をかけて、大きなリターンを得られるのであれば、積極的に動くことを怠ってはいけないのだ。

今、この未曾有の大惨事の中、いわば、第三次世界大戦ともいうべき時代で、心が萎えてしまい、どこへ進んで良いのか分からなくなっている人も多い。多分にもれず、私だってそのうちの1人だ。ただ、かつての私は、指先ひとつ動かすことができないような「鬱」に沈み込んだこともあるし、周りから人がいなくなってしまうほど、元気になりすぎて、社会的な地位も名誉も金も全て失ってしまったことだってある。別に、私こそが、人生を悟り尽くした賢者だと言いたいわけではない。仮に、自分が賢者だとしたら、少なくとも4桁くらいのフォロワーは、獲得しているはず。現状のツイッターのフォロワー数は、ギリギリ3桁。賢者に毛が生えたとも言えない。

ただ、自分の考えをまとめ、毎日発信するという努力だけは怠っていない。昨年の大晦日から、毎日ブログを書き続け、常に自分の思考を整理している。これは、実際の日常生活でも大いに役に立っており、現在対立している会社との紛争の資料をまとめるときであれ、メルカリの商品情報を書くときであっても、スラスラと言葉が浮かんでくる。多くの人は、心の中に浮かんでいる自分の気持ちを、具体的に言葉にして表現することができていない。まして、日本の文化というのは、「空気を読む」という暗黙の了解の上で行われていることが多く、それは、古文の文章で、主語の省略が多く行われていることからも分かる通り、内内で話をするときには、わざわざ文の主体を示さなくても良いという了承が前提となって、話が進んでいっていることからも分かる。

何百年も前からの文章からでも、そんなことが分かるので、今更のこと、日本人が、自分の心の中を相手に具体的に主張するというのは、困難なことなのかもしれない。ただ、現在の世界の中では、SNSという手段で、多くの人が文字をつかって、自分の考えを外部に発信できるようになった。同調をはかるように教育されていた私の世代ではタブーとされていた事柄でさえ、インターネット上では、当然のことのようにトピックとして取り上げられている。昔は、自分の中での解決しなけれればならなかったことを、現代では、ネット上に「答え」があり、すでに同じようなことで悩んでいる人の「回答」が、すでに何処かに転がっているのだ。

これを、便利なことと採るのか、悪しきことと採るのかは、個人の問題というより、ケースバイケースであると考えた方がいい。例えば、誹謗中傷のトピックに対しての世論などに目を向けるより、筋トレをしていれば抗鬱作用があるというような有益な情報を手に入れて、それを実践した方がいい。また、自分がホームページを立ち上げようとして、知識がゼロの状態から作るのであっても、今は同じようにゼロからスタートし、徐々にステップアップして、プロ顔負けのサイトを作成することだってできる。このような実用的な使い方をできるか否かは、今後の時代を生き抜く上での大きな分岐点となるのは間違いない。

「昔は良かった」と言うだけでは、そこでストップするどころか、どんどん後退するだけだ。特に、現代の情報のスピードと進化は、現在猛威を奮っているウィルスと同じくらいの脅威的なスピードで進んでいっている。もはや、指を咥えて見ているだけであれば、時代はどんどん先へ進み、自分の足場などは、「今は昔」とも言われる人となって、何百年後かの古文に登場することすらなくなってしまうであろう。自分の存在を前へ出す。これを、自分勝手なことだとか、目立ちたがり屋の行為だと思い込んで遠慮しているのであれば、積極的に舞台で踊り続けている人たちのエキストラとしてしか行動できなくなってしまうのだ。

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