思考力

厳かに刺激する

「作文」というのは、ある出来事に関しての自分の気持ちや感想を述べるものであり、「論文」というのは、自分の主張を客観的に述べたものである。いきなり難しい本題に入ってしまったようだが、この定義は、あながち間違ってはいない。少なくとも、私の区分においては、これが境界線だ。そして、この区切りに対して、三つ目の言葉の伝達方法も出てきており、それが現代における「SNS」によるメッセージの発信である。この三項定立型を、少し考えてみよう。

やはり、響きとして稚拙とも思える「作文」には、他者への伝える内容はともかく、客観性というものが欠けているわけで、「論文」に含まれている客観的説得力というものが、なかなか見当たらない。もちろん、作文といえば、「雑記ブログ」がそれにあたるわけで、良い悪いという区分を超えて、やはり自分の意見を一方的に吐き出すという面においては、そのようなブログは自己同一していると言えよう。「論文」には、論証責任があるのだから、そこには、根拠となるデータが介在していなければならず、それがなければ、ただの文字の羅列にしかならない。

そして、こんなに真面目一辺倒の今回のブログの最後を語るのが、今回のテーマの「SNSメッセージ」である。Twitterでも書いたのだが、やはり近年のコミュニケーションの方法には、ラインのスタンプを始めとする文字の装飾だけでしか自分の思いを強調できなくなってしまっている。だから、喫茶店の周囲の会話が、感嘆符のみを語尾につけたもので成り立っている。「ふーん」「そっかー」「いいね」…。自分の心を具体的に言葉にできていない。それは、やはり普段からの言葉のやり取りが、一方的なものに成り下がっているからに違いない。語彙力というものが大きく欠如してしまっているのだ。

もちろん、現代の生産性重視の中での長い枕詞のようなメッセージは好まれることはないが、やはり自分の普段遣っている言葉や、落ち着いてかける文章などには、やはり変化球をつけられるような言葉を考えて発するべきだ。そうすることによって、必ず相手の心に残る言葉というのが、自分でも驚くほど出てくるものである。私は、このことを自分の授業中によく感じていたものである。大袈裟な言葉を遣わず、あえて思慮深い言葉を選ぶのだ。そうすると、聞き手の耳はこちらへすんなりと向かってくるようになる。

発信するときに、相手に伝わるように想いを込める。私は、このことをむねにひめ、今後のブログも書き続けていこうと思う。そして、今後、Twitterの発信においても、意味のないツイートを控え、相手が気づかなかった「盲点」を刺激できるようなツイートをしようと思っている。そうでなければ、ただの駄文にしかならず、相手の時間をも奪ってしまうことになりかねないのだから。

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