思考力

回転体が膨張する

車を運転していて、やはりイライラすることもあり、最近では、正当なところでは、強くクラクションを鳴らすようにしている。山林の道などは、やはり対向車が車線をはみ出てカーブを曲がってくれば、こちらがギリギリで左に交わさなくてはならず、それでもスピードを緩める気配がない時は、クラクションを鳴らさずにはいられない。特に、最近のフラッシュバックでは、「その場」で怒りを表せなかったことが後遺症になっているわけで、今だにそれを引きずってしまっているのであれば、今後の人生でも同じようなケースに遭遇することはあるはずなので、交通ルール的にモラルがない者への警告を鳴らすというのは、至極当然である。

たった今、帰宅し、駐車場へ車を入れるとき、田んぼ道を7人くらいの小学校高学年くらいの子たちが、並走したり、蛇行したり、ジャレあったりして道を塞いでいた。このような場合、もちろん危険を察知させるようにクラクションを鳴らすのだが、やはり危険運転の中に、明らかな「悪質性」を感じたので、助手席の窓を開けて、危険な運転をしないように諭した。列の最初の子数人は、目を合わせることすらしなかったが、列の最後の方の子は、軽く頭を下げていた。運転席から出て行って怒鳴り散らすようなことはしなかったが、やはり誰かが先陣を切って教育していかなければ、その子たちではなく、誰かが被害者にも加害者にもなってしまう。それではあまりにも不幸だ。今回の私ごときの注意がどこまで伝わったのか分からないし、結局、後々の笑い話になっていることもあるだろうけれども、自分が前へ出て注意できたことは、称賛に値すると思った。

誰かに不愉快なことをされた時に、とにかく「そこ」で怒りをあらわにしなければ、時と共に「それ」は、風化されていくわけで、そんなことを根にもっていれば、なぜか自分が弱い人間だというレッテルを貼られてしまう。それで去って行ってくれればまだマシなのだが、そこに付け込んできて、こちらの時間、物、最終的には金までも奪い取って行った人間だっていた。もちろんそれは、こちらには非がないと考えているのだが、やはりその場で怒りを示さなければ、こちらがスポンジのように怒りを吸収するどころか、何も感じない空気のような存在に成り下がってしまう。それだけは、絶対に避けなければならない。

今日のドライブでは、仏教の教えを説いた動画を聴いていた。慈悲の心というのは、あくまでも相手を許容し、自分もその範囲内で共倒れにならないだけの能力を備え合わせていなければ、成立しないという。確かにそうだ。海で溺れていて、必死で助けを求められていたとしても、自分がその助けられようとしている人を十分に助けられる「泳力」がなければ、援助というのは成立しない。また、怒りをあらわにするという時には、必ず相手が好転すると考える時だけにしなければならない。こう考えたときに、自分が瞬間的に黙り込んでしまうというのは、慈悲の心もなければ、相手への思いやりの心もないわけである。このような状態をどう捉えるべきなのだろうか。

そんな動画の音声を聴きながら、やはり人間性が狭い自分は、過去のトラウマがフラッシュバックしてしまう弱い存在であると痛感する。それに気付けるだけマシかといえば、そうでもなく、それに過敏に反応してしまうからこそ、苦悩という「蟻地獄」にハマってしまうのだと思う。自分という殻の中に存在する、もう一人の自分をどのように操作していくのか。それを変幻自在に操れるのであれば、人は現世にいながら「極楽浄土」を堪能できるのかもしれない。

仏教では、「輪廻転生」「因果応報」などの回転的思想がある。悪いことをすれば必ず自分に却ってきてしまうし、もし現世で却って来ないとしても、次の世で悪いことが生じるという考え方だ。自分に危害を加えた人間に対しての怒りを消すということができないし、何とかして次に会ったときにこらしめてやろうという気持ちも消失しそうにない。それならば、このような怒りの感情を抱きつつ苦しんでいる自分は、「前世」で何か悪いことでもしたのであろうか。それは、仏教の世界の「神」のみぞ知るといったところか。

十代の時、こんな悩みは、大人になればすぐに小さく消えていくことだろうと思っていた。でも、当時の自分が抱いていた悩みというのは、今この年になったところで、小さくなるどころか、むしろ大きな悩みとなって、自分の中で抱え込むことにもなっている。自分という小さな存在の中に、どんどん大きくなる悩みの果実を、これからも育てていかなければならないのであろうか。そう考えると、やはり生きるというのは苦しみに満ちているのである。

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