思考力

脱資本主義的な幸福論

「最近の若い者は…」。私が若い頃にも、よく聞いていたセリフ。つまり、どんな世代であれ、40過ぎの人は、20前後の人を揶揄する言葉として、このワンセンテンスを用いる。この流れは、これからもずっと続くはずだ。では、40半ばの私が、今の若者を見て思うことは何だろうか。私は、ずっと教育業界に携わっていたので、特段、大きな変化を若者に抱くこともない。もちろん、私は歳を重ね、教え子となる若者は変わらぬ歳であるのだから、アニキが舎弟に何かを説教するような立場が、オヤジが息子世代に人生を語るような関係になっただけなのかもしれない。

ただ、私は争い事を極度に恐れ、その場を和ませて切り抜けることで精一杯になる私ゆえ、教師として怒らねばならぬ場面を、無難な選択肢を採りつつ、幾度となく回避してきた。もし、私が育ってきた昭和の時代で、私に悪態をついた学生が、同じ行動を取ったのであれば、集団の責任として、教室全部の生徒を横並びにさせて、端からビンタを浴びる程のことをやられた。そう考えると、昭和の時代にビンタを喰らって、その痛みを知っているから、令和の時代に、それを伝承させないという優しさなのだろうか。いや、ただ気の小さいまま育った中年の「易しさ」に過ぎないのだろうと思う。

苦手な人との上手な付き合い方として、いろいろな方法があるが、私は先述の通り、逃げるが勝ちという信念というか、考えを持っているだけなので、少しでも不具合がある職場であれば、埋もれる前に退職するし、人間関係であれば、無駄な小競り合いは避け、言い争うこともなく関係を断ち切ってきた。そうなってくると、今の孤独な私の環境が出来上がってくるわけで、仕事にも周囲の人間関係にも恵まれなくなった中年オヤジという着地点に到達してしまう。人生という道は、なかなか正確に、かつ素直に続いているようだ。

幸福の考え方を、資本という観点から考えたときに、収入が支出よりも上回り、その状況で満足できれば、その人は大変幸せな人と言える。逆ならば、あくせく働くだけか、ただ砂に埋もれるように立ちすくむだけとなってしまう。現在の私は、明らかに後者の立場にいる。ただ、私の状況をシッカリと把握してくれている友人もいるし、こんな中年の私が思わず恋心を抱いてしまうような女性だっている。資本力という観点ではない角度から考えてみれば、私はとても幸せな立場にいるといえよう。

蛇口をひねれば飲み水が出てくる。夜中に一人歩きできる。最悪の場合は、生活保護の制度だって整っている。こんな日本の恵まれた環境の中で、不幸を感じるというのは、あまりにも贅沢な悩みともいえよう。そうやって、自分を奮い立たせること。そして、心配事の8割は実際に起こらない。残りの16%は、対処可能という科学的データに基づいた確率を信じて、毎日を幸せに過ごすこととしよう。

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