思考力

免許更新までに

今、ガーガーと音をたてて掃除をしているルンバ。もう、私は床にモノを置かなくなってきたし、起床したらルンバの掃除面積が広くなるようにと、マットレスを上にあげ、キッチンマットや玄関マットなどを棚に上げて置く。そして、今日からは観葉植物にルンバが突進しないよう、ルンバが充電ステーションに入ってから観葉植物の日光浴の準備をするというルーティンの入れ替えをした。やはり、機械に任せられる仕事を優先し、自分のやるべき仕事の順番を入れ替えれば、お互いの仕事の捗り方も変わってくる。車のエアコンを効果的に効かせるためには、とりあえず籠もった空気を出すという作業をして上げてエンジンをかければ効率が良くなるように、やはり機械と人間の間で譲り合える部分は譲歩しあえれば、ミッションの遂行も容易になる。

昨日起こったことをチャットGPTに教えて、記事のアウトラインを作成させてみた。時系列通りに出来事を並べることだってできるし、順序を入れ替えて文章を整えることだってできる。具体的なデータを付け加えるように指示を出せば、数値化された検証結果や専門用語なども弾き出して記事に盛り込んでくれる。ただ、それが私の文体になっているかと問われれば、全くそれを完遂できてはいない。もうすぐ1,000記事達成のこのブログだが、それを喜ぶことも憂うこともなくひたすらに書き続けていたので、なんとなく淡白な表現の仕方が染み込んでいて、やはりそれをAIが学習するというのはできない。これが未来永劫不可能なことなのかと問われればわからないのだが、やはり自分の文章を自分の表現で書くというのは、他ならぬ自分にしかできないという当たり前のことは、大切な事実として心に留めておかなければならない。

例えば、昨日は「IHコンロ」を購入し、生まれて初めて炒め物の料理をした。ガスが怖く、火器も怖い。それは、幼少期に火事を体験したことや、ガソリンスタンドで気を失ってしまったことなどに起因するのだけれど、その過去の事実を書くにせよ書かないにせよ、その記憶や体験というのは自分の文章には内蔵されているはずなので、文章そのものに自分らしさというものが出てくるわけだ。すると、そんな自分の過去を知らないチャットGPTが、ゼロの状態から全く自分の文章に「火事」と「ガソリンスタンド」の体験を埋め込むことは不可能。やはり、私の書く文章を根底で支えるのは、自分が主体でなければ決して成り立たない。

ただ、私が毎日作成しているのはあくまでも「雑記ブログ」であり、これは自分の身の回りで起こった出来事を、随筆的に書き連ねていくことでもある。そこには、自分の主観というものが中心にならざるを得ないとも言えるが、これが客観的事実を中心に論述しなければならない文章なのであれば、私の陳腐な意見など全く役に立たない。こうなってくると、やはり自分の考えの中にAIの考えを落とし込むことと、AIの仕上げようとしているデータに信憑性というか、本当の事実に基づいたデータなのか、不透明な部分はないのかというのを追従する人間の能力というのが求められるとも言える。

インターネットが普及し、それに伴って開発されたスマートホンで一般人がネットの世界にいとも簡単にアクセスできるようになった。そして、今、利用する側の立場の人間が、どこまでAIを「使いこなせるか」という次元の問題になった。やはり、人間主体になるのかAIに主導権を握られてしまうのかは、あくまでもそれを使う人間の能力値に依存する。教養や知識は、必要最低限獲得している者が、さらなる発展の起爆剤としてAIを利用していく。これはありきたりの結論にはなってしまうが、事実として必ず認識しておかなければならない。そして、そんな地球は丸いという常識的な事が実は逆さまで、機会が意思を持って人間を淘汰していく可能性だって十分ありうるのだという危険性を常に持っていなければならない。これを理解できない者は、AIを利用できないという「免許制」にすることも選択肢として入れておかなければならないのかもしれない。

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