思考力

流れないところに置き去りになる

段ボールをスーパーのリサイクルコーナーに入れ、そのままブックカフェで前の日に購入した本を読み、なんとなく海を見に行きたくなりつつ気持ちが上がり、北上して釣り場を見ていたら刺身ととんかつを食いたくなって定食屋で食べて帰った。これが、昨日1日の流れ。これに色をつけて記事にまとめようとすれば、どれかひとつの事柄にスポットを当てつつ、現状からこれからのビジョンをつなぎ合わせればいい。そして、そんな流れを考えながら記事が面白い方向へ飛んで行ったり、内容が自分らきく装飾されていく。それが記事をブログ書くことの面白さでもある。

この出来事の流れをチャットGPTに指示出しをし、時系列上に並べたり、時系列を並べ替えたりしても、思うような文章に仕上がることはない。所詮、私が考えていることというのは、出来事に対しての自分の気持ちの反映であり、やはり起こったことに対して淡々と「ありがちな」感想を連ねていても、全く自分の気持ちとはかけ離れていたり、表現がただただ大袈裟になっただけの文字が羅列されているにすぎない「モノ」に成り下がってしまう。やはり文章の根底にあるものというのは、作者の気持ちが内含されていなければならないし、そこを機械に委任しようというのは、無理がありすぎる。

ただ、このようなAIの発達により、明らかに人類のステージは加速度を増して進歩するのであり、それによって淘汰される職業や人間が出てきてしまうのも間違いないことを、今の時代には認めなければならないことも事実なのだ。例えば、人事課の采配によって人事異動を命じるとき、ある社員の売り上げの数値や今までの具体的な成果報酬の受取率などの、とにかく「データ」に基づいた数値で今後の配置を決められる。そこには、血も涙もないような無慈悲な決定ではなく、ただただ客観的な貢献度を具体的に考察したときの有能性による結果なので、これを元にした人事采配というのは、極めて感情移入を抜きにした「正しい」判断であると言える。

つまり、訳のわからない無能な社員によって下された無責任な人事異動など、全くもって意味をなさなくなり、それによって傷つく社員が減るのだ。だから、私が勤めていた時の会社がどれだけずさんだったかが良くわかるし、その会社がこれからの時代で変化を嫌うのであれば、その会社ごと社会から嫌われるわけである。つまり、完全に淘汰されることを避けられないのだ。これからの時代、変化する人としない人に分類するのならば、時代が動いていることに敏感に対応するかしないかの結果を受け入れなければならないことを前提としたら、時代が大きく変わればかわるほど、その場で足踏みをしたりアグラをかいている人は、強い力でダメージやリスクを受けることになる。そのような人ができることと言えば、このAIに支配されるであろう時代が来ないことを祈ったり、アナザーワールドへ旅立つ準備をするくらいしかできなくなってくるのかもしれない。

早い人は、もうとっくにチャットGPTの流れを自身の仕事、いや人生にそれを取り組んでいる。もう、「組み込む」という次元で自分とのシンクロ率を上げている。この事実が、ただの不発弾で、結局は取り越し苦労だったという結果になったとしても、AIの流れを取り入れられた人というのは、必ずブルーオーシャンを掴むと思っている。既に、AIチャットの世界を先取りしていた人たちが大きな利益を得ているのは事実だし、2023/09/18(今日)の時点では、もうすでにレッドオーシャンと化していると考えた方がいいのかもしれない、少なくとも、それくらいの危機感がなければ絶対にダメだ。

もちろん反論はあるだろうし、あくまでも自分の考えであることだから、それを捻じ曲げてまでAIの力を誰かになすりつけることはしない。考え方というのは、その人だけに決定ができる自由があるのだから。私の記事の内容くらいスラスラと書ける時代が来るのなら、私はもっと筆を持つ回数や、知識、語彙力などを高めていかねければならない。ただ、その緊張感を常に持っていることを念頭に入れられることは、自分の文章に責任を持っているということになるのだから、今は「セーフ」だと考えよう。

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