思考力

転石苔の上にも年単位

日が昇るのが早くなった。5時前に目が覚めたのだが、すでにカーテンの下から日差しが漏れていた。身体を起こしてみると、私の身体に染み込んでいたストレスと疲労を、コアラマットレスが溶かしてくれたようで、マットレスから立ち上がるというより、少し硬いケーキに包まれていて、そこから身を離すような感覚だった。先週末に喰らった強い精神的ダメージで、心の歪みに何やら悪いことに対する「憎しみ」の気持ちが湧き上がり、吹雪の中で一気に降雪の量を増すような、負の感情がふつふつと湧いてくる。いつものことながら、自分の恨めしい気持ちという負の感情を拭いとることが不得手である。

ただ、最近では、気持ちの良い朝を迎えられれば、すぐに感情をコントロールできるようで、「フッフ〜ッ」と沸いてくる邪念を、「スルリスルリ」と避けながら、軽快にかき消すことができるようになった。そして、自分の精神的なバイオリズムを書き綴りながら、常に「ニュートラル」な心の状態で文字を重ねていくため、自然と心の乱れが整っていくことが分かる。さらに、質の良い睡眠効果を得られれば、精神的にも肉体的にも「今」に集中できるようになる。つまり、ブログを書くことによって、限りなく「瞑想」に近いことを実践できているのだ。

ふと気づけば、今日は”BGM”を流すことを忘れていた。ただただひたすらに「今」に集中していれば、“Rainy Jazz“も“Bossa Nova”も必要ないことに気づく。手書きの原稿を仕上げている時も、ここまで文字を重ねていく時であっても、微妙にに違う声の一羽づつの小鳥のさえずりがコーラスとなり、気持ちの良い朝に、最もマッチするBGMは、生粋の自然音だということに気づく。今日は、このまま鳥の綺麗な歌声を聞きながら記事を書き続け、iPadからBGMを流すことはやめておこう。小鳥たちのさえずりがあれば、まるで豊かな自然の森林の中のカフェで、“Relaxing Jazz”を聞いて、スムーズに文章を組み立てられるような感覚に浸れそうだ。

今日は、この記事を書き終えたら、“TOKYO Shibuya”まで行き、この1ヶ月の「謎の寒気」と数日前のアクシデントによる精神的な「強い乱れ」を主治医に伝え、気分の波を落ち着かせる薬を変更してもらう。コロ助の感染拡大防止の観点から延長された「緊急事態宣言」だから、薬だけを送ってもらうことも可能なのだが、電話での問診には快く応じてくれない主治医。私の怒りの導火線に着火した、先日のターミナルケアの不親切なドクターとは異質なのだが、私の主治医は、遠方の千葉外房からの通院であっても、目の前にいない患者に対する対応は良くない。「5G」の普及で「リモート診療」が普及するというのに、私の主治医はついていけるのだろうか。

医療技術が上がり、その質ばかりではなく、躍進スピードも一気に加速する。「人生100年時代」と言われている昨今、必然的に生き方そのものも変化しなければならない。終身雇用制度が崩壊し、働き方改革も行われ、増加の一途をたどる税金システム。そうなってくると、もはや「老後2000万問題」というワードそのものが「固有名詞」となる日が来るかもしれない。「転石苔むさず」という諺は、結構前からアメリカではプラスの意味合いで捉えられるようになっていた。他方、日本では「石の上にも三年」という考えから抜け出せずにいた。

日本だけではなく、世界中の人たちがマスクをしなければならないような未曾有の大惨事の中、予想だにしなかった危機に瀕したとき、我々人類は、フットワークを常に軽くしておかなければならないという教訓を得た。ただ、残念ながら日本政府のフットワークが軽いとは全く思えない。だから、少なくとも日本人一人一人の意識を高め、不思議と増えないお金の理由や、何かに惑わされて浪費をしているのではないかという原因を追求し続ける必要性がある。そのうち政府が動いてくれるだろうという呑気な考えでいるのであれば、政府が国民を放り投げようとしたときに、再起不能のダメージを負いかねない。

このような時代に、私は「見栄を張る」ということそのものに疑問を抱くようになった。例えば、ブランドのロゴが思いっきりプリントされているようなブランドを着ることに、強い抵抗感を感じている。そのブランドにスポンサーをしてもらっているのならまだ救いはあるが、そのブランドに金を払って、自分自身が広告塔となって街中を歩くなど、どう考えても情けない「見栄」でしかない。こんな見栄を張り巡らせた欲望の塊のヒトのフットワークは、決して軽くはならない。だから、最近の私の買い物の商品は、できるだけシンプルで品質の良いものを見定めるようにしている。

そろそろ優雅にサーフィンをしたい。左手首の怪我も、ほとんど完治しつつある。もう、お金を費やしてモノを買うのではなく、目に見えない体験に投資していきたいと思う。だから、独り身は自由で良い。もし、私が家族を持つような立場であったら、間違いなくこんなにフレックスな生活を送れるはずはない。少なくとも、私にとって、結婚や子供を養うということは、未来への投資ではなく、負債を作るということにしかならないと心の中で思っている。

それでは、“Shibuya”へ行こうと思いきや、ラッシュアワーの東京へ突っ込んで、千葉の自然にコロ助を撒き散らすのはよくないので、少しスケボーを蹴ってから出発しよう。あぁ、なんて自由で贅沢な時間を過ごしているのだろう。そんな毎日に感謝している。

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