思考力

休眠期に居られるのか

もうすぐ午後2時。もはや、ブログを書くことよりも、眠れるだけ眠り、冷蔵庫にある甘い物や脂っこい物を腹へ流し込み、ひたすら横になる。さらに、眠気と食欲を増幅させるため、スーパーまで車を走らせて、同じような食品とスナックを買う。そして、YouTubeでも閲覧しようとして、Macの電源をつけたときに、ブログを作成していないことに気づいた。所詮、鬱期の間にできることなど限られていて、自分が強固に固めていたはずのことなど、あっさりと溶けてしまうのだ。これだから、鬱というのは手強い。

腰が痛む。立ち上がることが億劫になるほどだ。これがまた寝たきり生活に拍車をかけるし、今まで散々、生きがいになったと喜んでいたスケボー であっても、もはや海岸までドライブに行ったり、車に乗ることそのものであっても気がひけるようになってしまった。昨日だったか、「入院」というワードが頭をよぎった。人間ドッグの意味も込めて、この不健康極まりない生活から距離をとり、再び心身ともに休ませてあげることも大切なのではないだろうか。少なくとも、現状は自分の寿命を縮めているだけである。

Twitterでは、メンタル疾患になっている人をフォローしている影響で、かなり際どいツイートも見受けられる。自死をほのめかすものや、自傷を画像付きでアップしているものだってある。ただ、その中でも、自分の経験と一致するものも確かにあったりして、共感できるものだって多々ある。このような波長の一致を考えるということは、今の自分にとって、いいことなのか悪いことなのかは、少し判断しかねるところでもある。ただ、鬱期に風呂に入ることのハードルの高さを呟いている人の気持ちは、痛いほど分かるし、私もここのところ風呂をスキップすることがよく出てくるようにもなった。

気づけば、今日は土曜日だった。スーパーの混み具合が、そんなことを思い出させてくれた。自分にとて、曜日感覚なんていうものは、とっくに消え去っているし、手帳だって、ほとんどただの冊子のような状態でもある。アップルウォッチだって、無駄にバイブレーションしたと思えば、ただのメールの通知だったり、もはや誰とも連絡をとっていない自分への迷惑なラインのメッセージだったりする。このような意識をそらしてしまうだけの機能を、果たして自分は必要としているのだろうか。少なくとも、訳のわからない高級な腕時計をするよりはマシだったと思っているのだが、不意に通知されるベイブレーションは、今のところ邪魔でしかない。たまたまスマホを開いて、何らかの通知に気付くのとは違い、毎回毎回通知に縛られているというのは、とても不快に感じるばかりだ。

過去のトラウマばかりが脳を支配している。いつのことでも、その時は絶対に怒らなければならないという場面で、怒りを鎮めていた。理由は簡単で、「気が小さいから」というもの。そして、中途半端に忍耐強いばかりに、その環境から逃げられない。逃げたら負けだという、訳のわからない頑固なところもあるので、強さを演じる以外ない。そして、最終的に不本意にもその場から離れたとしたら、当時の怒りが大爆発してしまう。こうなったら、自分の中の怒りのマグマというのは、決して収まることはない。もはや収集不能ということになる。そして、その傷跡の深さが浅くなったとしても、時系列上に並べられたクレーターというのは、直近の怒りが爆発すれば、芋づる式に再稼働し、もはや精神領域全体が、壊滅状態となってしまう。ここまで自分のトラウマの噴火の仕方を客観視できているというのに、それを俯瞰して解決策を見出せない自分というのは、やはり愚かなのだろうか。

私にとっての「私」という存在とは。大学受験で浪人していた頃に、自己同一化とか、他者化とか、対立感情併存とか、そんなことばかりを深く考えることが多かった。そして、大学という現場に入れば、そんなことを考えている人たちが溢れかえっていると思い込んでいた。それがそのようなわけでもなく、自分の考えていたことというのは、ただの見当違いであって、結局のところ、要領よく自分を動かせられる人、つまりもう一人の自分を飼いならせられる人こそが、この世の中をうまく渡り歩くことができるのかもしれないと思った。もちろん、自分だけが考えるべきことを考えているなんていう傲慢な考え方は捨てなければならないのだけれども、やはり、自分の遺してきた足跡の中に、本当の「自分」というのは、絶対に深く考えられる自分でなければならないという軸のような考え方があった。そして、それをキープし続けているのであれば、今のような入院を考えなければ心身を守れないような状態に陥ってしまうことは避けられないのかもしれない。その覚悟は、今の自分にあるのかどうかは、わからないというのが本音だ。

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