思考力

「新」友動かずして「忍」識する

ルンバは、自動で充電ステーションに戻り、そこで自動で充電されながら次の指令を待つのだが、今朝は始動スイッチを押せど、ピクリとも動かなかった。その原因を調べれば、案の定というか、充電ステーションへ入った拍子にスイッチから少しずれていたようで、24時間程度の断食をしてしまっていたようだ。朝、床のモノを片付け、コーヒーを淹れながら洗濯物を回し、ブログ執筆と同時にルンバが動き出すという次世代の感覚を、今日ばかりは味わえなかったので、とても残念だ。

今朝は、雨模様。世間様は、気怠い月曜日の始まりだ。万年日曜日の私とて憂鬱な朝なのだから、これから連勤で最低8時間、5日間連続で勤務しなければならないのだから、一般的なサラリーマンは、さぞかし気が重くなるに違いない。私が、そのような生活に再び舞い戻るかといえば、もはやそんなことはないと思うし、質素な生活さえ続けられていれば、もうリタイアでもいいと思っている。去年のような大怪我さえしなければ、命に別状はないし、腰の骨が折れたって、コルセットをしながら激しい運動をやめればいい。これが、加齢というのならば、ある意味積極的に受け入れるべきだ。

ルンバを確認すれば、まだまだ充電が必要の表示が出ている。部屋を見渡せば、感よく植物を日光浴させていなかったので、鉢を窓際に移動させる。雨だから、日差しは弱いのかも知れないが、植物にとっては十分なはずだ。6つの観葉植物が、しっかりと窓に向かって光合成をしている。まだまだど素人だし、こんな行き届いたケアがいつまでもつのか不安は残るが、やはり植物の命を育てるわけなので、それを見守るのも楽しみがあるのも事実だ。

断捨離をして、もう大きな物を手放すこともない。やることも明確になる。すると、植物を育てたくなったり、インテリアに凝ってみたり、もう着るはずのなかった半袖の鼻地熱シャツを着たり、新しい事をやるのにも積極的になる。やはり、人間にとって、不要な物をため込んだり、大伯情報を詰め込むというのは、とても不便な物であるどころか、弊害にしかならないようである。少なくとも、今の自分にとって、このものが少ない状態というのは、快適そのものだ。この生活を継続すると、一体どんな状態につながっていくのかということも、とても興味深いところでもある。

このブログを始めてから、どれくらいの月日が流れたのだろうか。年末に始めた記憶があるが、もうそんな事を正確にカウントする気にもならない。もはや生活の一部に完全に溶け込んだのだから。記事数は、もう少しで1000記事を達成するようだが、取り立ててお祝いをしようとも思えないほどの当然のこととなった。生活の一部になる。朝のルーティンを確立する。そうやって、日々の生活が豊かになっていくのであれば、やはりこれからの人生の原動力というものが増していくのである。これからの人生を、より充実したものにするためには、継続できるなのかを、少しずつでもいいから増やしていけるのかどうかというところにかかっているのかも知れない。嫌、きっとそうなのだと思っている。

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