思考力

きけ 自由主義末期のこえ

森の中で、オオカミと吸血鬼が争っている。それぞれ、自分の陣取り合戦に躍起になっている。それは、ある意味、お互いがお互いの陣地を譲り合うことなく、無批判に敵対視している「虚構」の世界である。もし、この虚構の世界を作り描いた物語の作者が、この陣取り合戦のステージ以外の範疇にいる第三者であるのなら、これは「洗脳」とも言うべき、非常に恐ろしい事態であると言えよう。無批判のうちに、自分が憎むべき対象を決めてしまい、何の疑いもないまま、自分のチームこそが正しいと信じてやまないのであれば、知らぬ間に歪められた世界に踊らされていることになる。

個人の思想を持つことそのものが禁止されていた戦時中の「ファシズム」。やがて、第二次世界大戦終了後には、主権在民であるという方向に考え方が180度変わってしまうような「共産主義」へ。そして現在、私たちは一部の中央の統制に流れないことを前提とした「自由主義」の渦中にいて、個々の思想を持つことそのものが許されている。比喩的にまとめるのであれば、全体の調和を求めるために、「ファシズム」「共産主義」「自由主義」を全て成立させるために、この3つをミックスさせる舞台の上で「演劇」をしている状態だ。

こう考えると、意識的であれ無意識的であれ、時代の流れの中で現在まで残っている「自由主義」の考え方に我々は染まっていて、世界が統一されたひとつの舞台で、各々の国が足を引っ張らないように役割を持った登場人物が集まった共同の劇場が完成する。ただ、そこに「国家」という枠が存在する限り、各国の思想や価値観、はたまた宗教的背景や国家の歴史などの差異を均一にすることは、非常に困難であり、世界の繁栄と利益を目的とした動きという考えが曖昧になる。結局のところ、自国の利益を追い求めるだけの結果に陥っているのが現状だ。

全世界が予想だにしなかった「新型コロナウィルス」が猛威を振るい、金融危機のダメージに拍車をかける。こうなってくると、政治であれ経済であれ、「自由主義」という概念から生じる出来事の先に、歪な結果や無理や不利益が生じることに気づき、ある意味、「自由主義」という考えそのものが、虚構に満ちた舞台で繰り広げられていた「悲劇」であったという考え方に落ち着きそうだ。無意識のうちに作り上げてしまった架空の世界の中で、意識的に自分の考えを集団に埋め込んでしまったのであれば、そこには集団の闘争本能が働いてしまい、偏見が生じて集団と集団の対立が起こる。この対立をカンタンに具体例として挙げた事例が、実は冒頭の「オオカミ」と「吸血鬼」の架空の話であり、この拡大版が、まさに自由主義が加速度を増して、結局のところ、現在において、脆くも崩れ去っていく現在進行形のワンシーンである。

ここで必要となってくる考え方は、やはり毎日のように自分の考えを書き綴っているブログの中で出てくるテーマの一つである「客観的データ」に基づいた事実の認識であり、正しい知識を持っていなければ、カンタンに搾取されてしまうという「知は力なり」という考えを忘れないということが重要になってくる。確かに、昨日のブログでも、このフレーズをそのまま書いていたことに気付く。自分の考え方の一貫性に感心する以外ない。逆に考えれば、「知らぬが仏」では済まされない。このフレーズも、昨日のブログで書いている。主張にブレがないのということは、考え方を変化させないということだから、結局自分も固定概念を話せないというべきなのだろうか。視点を変えて物事を見なければならないのかは分からないが、コロコロと変化するような視点であるならば、それは私が誰かを煙に巻くような八方美人の人間であることになってしまう。

勝手にでっち上げられた世界は、自分自身が舞台の上で踊らされて見えない状態であるほど、そのステージは歪んでいて、そのステージを観ている人たちや、その舞台を監督している人たちは、笑いがこみ上げてくるほど滑稽な登場人物の演技でしかなくなる。せめて、サーカスのピエロのように、全てのオチが分かっている状態で、観衆に笑われているのならば、まだ救いはあると言える。こうやって、世界中で、同じような舞台が繰り広げられるほど、そこを監修している一部の人間のポジションは安定するわけであり、その舞台の登場人物の数を分母とした時に、分母の数が大きければ大きいほど、一部の人間の搾取する割合が大きくなる。

毎朝、ジャズを聞きながら、コーヒーをすすっている私は、このような動きに冷静に敏感に対応することができるが、日々の雑務に忙殺されていれば、私も同じように、これからどのように生きていくかという深刻な問題を考える余裕などなかったはず。会社に誠意を尽くすことで、何やら正義感だけで動かされていて、それでいて、ずっと認めてくれなかった上の人が、こちらに対してムチを打つ手を休め、お褒めの飴をいただければ、コチラの闘志が再熱着火する。ただ、給料など雀の涙しか上がらないというか、責任が重くなればなるほど仕事が増えるわけだから、実質は赤字額が増えるだけ。どんなに『バビロンの大富豪の教え』が名著であっても、そもそもの種銭がなければ、お金そのものを動かせるわけはない。

Antique Toy Clown Doll on Black Background

仕事の苦しかった話をしようが、個人的に最高だったことと最悪だったことを並べて語り尽くそうが、世界の動きそのものを変えることはできない。どんなに自分の正義を語ったところで、自分自身が主導権を握るのか奴隷になるのかは、これからの世界の動き次第なのだ。ただ、ここで少しだけ希望が見えた。この大きく変化する世界の動きに合わせて自分そのものを変革させることによって、自分の不利益を被らないような、広く全体を俯瞰できる力をつけることはできる。過去の「自由主義」という現在における「不自由な足枷」を取り外し、どう生きていくべきなのか。ここを熟考することにヒントがありそうだ。

Studio shot of a young woman using a megaphone against a turquoise background

それは、自分の外と中の境界線をしっかりと見定め、外にある「嘘」の舞台を自分の考えとは分離させる。そうすることで浮き彫りになった、内なる「自分」を見極めることが大切。やはり、個人で考える力が大切であり、逆パターンである、全体に無批判に流されて意思を持たなくなることは、とても危険なことだとわかる。「生かされてはいけない。生きるのだ」。『きけわだつみのこえ』。戦没学生の手記の中の言葉であるが、この若者の心の奥底では、今の時代の強い自尊心を持つことの大切さが、心に染み渡ってくる。

 

 

Brothers sleeping in car

過去の声であっても、現在の声に変えて、未来を切り開ける。独りで主張していたはずのことが、実は多くの人たちが望んでいたことであるのならば、虚構の舞台から降りるためのシュプレヒコールを上げる勇気を持ち合わせていなければならないとおもう。「死」をもって、自分の主張を遺した若者。この生きながらえし死者の主張から分かることを、我々一人一人が、真剣に考えなければならない時代が到来した。目に見えぬウィルスが人類を襲う。意思を持つはずのないコンピュータが人間を制覇していこうとする。これを、人類がどのように解決していくかは、今後の大きな課題であり、いわゆる過去の黒歴史を明るい未来への反省材料と昇華させることに強くつながっている。

このような未曾有の過渡期に戦うための兵器は、他ならぬ「正義」であり、その正義の価値判断は、個々の価値観に委ねられると言えよう。

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