思考力

LoYal ROaD

激烈なフラッシュバックとまではいかなくとも、やはり強いフラッシュバックからくるストレスは辛く、今日も、対向車線から思いっきりはみ出してきた車に、長いクラクションを鳴らしたら、対向車が車線を戻し、ことなきを得た。仮に、こちらがクラクションを鳴らさなかったら大変なことになっていたのかもしれない。そんなことを考えていたら、もし今苦しんでいる問題が発生した時に、周りが震え上がるほどの反発をできていたら、相手は怯み、こちらの心の傷も、少しは軽減していたのかもしれない。でも、それができない自分なのだから、このように心は荒んでいき、遠い過去の嫌な気持ちまでも連鎖的にフラッシュバックしてしまい、とんでもないトラウマが生じてしまうのである。

昨日カスタムしたスケボーも調子が良く、良い運動になり、釣竿を買って趣味をさらに広げるよりも、スケボーを極めていく方にかけた自分を褒めてあげたい。釣りは、場所を決めて仕掛けを整え、そこに釣り糸を垂らして仕舞えば、あとはその場所から離れることはできなくなってしまう。もちろん、穂先を眺め、潮風を感じながら、魚を待ち続けて腰を降ろしていることは大好きなのだけれども、スケボーのように、身軽にサクサクと次のポイントに行く訳にはいかない。やはり、軽く地面を蹴って、風を切り、10分程度流したら、そのまま車に戻って車内で音声学習をしている方が、とても気楽だ。

音声は流れているのだけれども、過去の嫌な記憶は簡単に流れていくことは決してなく、むしろ時が経過するごとに強まっていくことは否めない。何にせよ、自分がこんなに苦しんでいることなど知らずに、自分に危害を与えた輩は、何のこともなく人生を過ごしている分けなのだから、この矛盾を解決できるだけのロジックというのは、浅はかな知識しか持たない私には、到底見つけられない。忘れなければいけない過去であることはあるのだけれども、その気持ちばかりが前へ出てしまったのであれば、むしろ悪い記憶というのは、自分を追いかけてくるものであり、それが古の人類に組み込まれたDNAの構造なのだから、それに抗うことはできないのだ。苦しくて危険な記憶に苛まれてしまうのであれば、それは自分が他ならぬ人間だからだということでもある。

昨晩、プロジェクターに写した映像を目蓋の奥で感じながら、瞑想をしてみた。とにかく「今」に集中する。現在の精神医学では、この瞑想による治療法というのは、かなり注目されているし、科学的にも効果がある方法だと認知されている。腰を痛めてからというもの、胡坐をかくということは、腰には最も悪い座り方だと言われていて、瞑想することをキッパリとやめてしまったのだが、腰椎分離症が誤診だったということを境に、椅子に座りながらの瞑想を再開しようかとも思う。昨日などは、目を瞑りながらも過去に囚われるあまり、終了時間がくる頃には、むしろ心の中が過去の追憶でぐちゃぐちゃになってしまったのが現状だった。しかし、これも何度も続けていることで改善されることなのだと思っている。

受験生を指導していた時によく感じていたことなのだが、とにかく自分のやり方に固執していたり、特効薬のような効果を要求するような人が一定数いたのだが、やはり「学問に王道なし」。これを否定することはできないのだけれども、やはり受験という狭い世界でしか物事を考えられなくなってしまったり、あるいは、受験までの限られた時間を意識するあまり、自分の方法や考え方から抜けられないケースが出てきてしまう。私の授業は、とにかく考え方を重点に置いた授業をする。だから、漢方薬のような効きかたをするものだと思ってもいる。それが生徒に伝わらなかったり、その結果が伝わらずにクッレームとなって跳ね返ってきて仕舞えば、訳のわからぬイチャモンをつけられて、いきなりクビになって放り出されたりしてしまう。タテ社会の構造でしか機能していない塾というのは、何とも皮肉な世界だった。

今は、個人で活動できる時代になった。だから、自分なりのプラットホームを構築し、そこの中で活動していくうちに、その範疇の可能性に未来を見出してくれる人がきっといると思っている。だから、私はこのようなYouTubeでの発信や、ブログの執筆に余念はない。どこかで必ず誰かに届くと信じることは、自分の生きる原動力となる。月並みな言い方になってしまうのかもしれないけれども、それは、学問に王道なしという格言と同じくらい基本的な考え方なのだと思うのだ。

-思考力