思考力

pure in The ZONE...

最近、ふと、小学生だったときのことを思い出す。サッカークラブのゴールキーパーだった私は、地元では、かなり名の知れた存在ではあった。そして、そのときの輝かしい記憶を回想しては、あのときの自分が、まさかこんな中年になるとは思っても見なかっただろうなと考えてしまう。ただ、少年期というのは、自分が中年になることや、20代になることでさえも、遥か遠くに感じるもので、キーパーとして名を馳せていた頃の自分も、そのときの瞬間瞬間に、意識を張り巡らせていたのだと思う。

ある試合で、自分が完全に「ゾーン」に入った試合があった。相手の強豪のキャプテンの放つ強烈なシュートが、止まって見えるのだ。しかも、その瞬間的なゾーンでは、もはや自分の体でさえもついていけず、顔面でボールを弾き返していた。それも、二回だったか。どんな突進に対しても、全く音が聞こえない状態のまま、スローモーションではなく、絵画のように止まって見える。ただ、その画像に向かって、体を進めていれば、ボールが自分の後ろへ転がることは決してなかった。

一点リードのまま迎えた、後半の最後の最後に、完全にフリーになった相手のキャプテンの突進が、再び止まって見える。音はシャットアウトされていて、相手の足元にあるボールに向かって体を滑り込ませると、視界が完全にブラックアウトしていて、自分の両腕の中でブルブルと震え、回転しているボールを、腹の中でガッチリと抱え込んでいた。自分でも、何が起こったのか分からない。とだただ、自分の抱えている玉状の物体を話してはならないと思い、必死に回転を抑えていた。気づけば、自分は猛突進する相手の足元へ体を滑り込ませ、ボールを弾いたわけでも、スルーしたわけでもなく、「キャッチ」していたのだった。キャッチできた自分が自分を信じられない状態だった。

最近、夜な夜な、そのときのこと、その瞬間の止まって視えたボールと足を思い出すようになった。完全に「ゾーン」に入った状態。仮に、その後にどんなミラクルシュートを放たれていたとしても、自分は全て弾き返せていたと思う。いまだに残る、強いトラウマやフラッシュバック。それとは反対に思い出す、思わず吹き出してしまう出来事。それに加えて、そんな神秘的な瞬間のことの記憶を辿るようになった。この先、自分の生き方がどうなってしまうのか分からないけれども、自分が生きてきた証や記憶というのは、大きければ大きいほど、誰かの心の中に遺るものであり、そこに、誇張や承認を入り込ませる必要もない。

今日、久しぶりにカラオケに行った。相変わらず続いている強風で、ショッピングモールに駐車している自転車は、全て倒れていた。車から降りて、カラオケ店に入るまでに、帽子が何度も飛ばされそうになって、もう帽子を外して店に入ったくらいだった。久しぶりに歌うと、身も心もリフレッシュされる。いつも、体調が良い時に、鼻歌を歌ったり、ふとした時に口ずさんでしまう歌などを歌っていた。トイレに行くときに、壁には、歌うことは精神的にいいということが医学的に証明されたという貼り紙があった。まさしく実体験として、自分にはそれを理解できた。

そして、ふとした瞬間に、「ゾーン」に入ったときのことを思い出して、完全に自分の歌いたい欲求よりも、回想したい欲求の方が勝り、ずっとそのときの記憶をグルグルと回想していた。そんなことをどれほど続けていたのか分からないけれども、いつの間にか、自分の涙腺が緩んでいた。フリータイムで入ったわけではなく、2時間で入ったので、あまり多くを歌えなかったとはいえ、回想していた時間が長すぎたのかも知れない。やはり、自分の中でクッキリと思い浮かべられる栄光というのは、時を経て、さらに輝きを増し、年齢を重ねた自分自身に、無情の感謝を与えてくれるのかも知れない。

他のルームから、『ドラゴンボール』のオープニングを歌う女性の声がきこえてきた。作者、鳥山明氏の訃報を、ファンの人全員が悲しんでいる。自分自身、サッカー部に所属したあたりで、ドラゴンボールの第一話を、テレビで観て、それ以来、毎週水曜日の7時がくるのを、心待ちにしていた思い出がある。やはり、鳥山氏の偉大な作品というのは、氏が亡き今であれ、遺っていて、それが語り継がれ、やがてアニメの歴史に深く刻まれていく。これは間違いない。自分は、そんな偉大な存在にはなれないはずだけれども、今の自分から見た過去の自分の「ゾーン」を解雇できるのであれば、それだけで自分の存在意義を認められるのではないかと思うのであった。

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