思考力

土足厳禁、一歩下がる

本日、一つ歳を重ねた。なかなか考えさせられる年齢。例えば、何か犯罪を犯してしまい、実名報道されたとして、マスコミに年齢を公表されたら、かなりイタイ年齢となる。犯罪の種類にもよるが、やはり良くないことをして捕まるにはかなり引いてしまう年齢であり、テレビの報道のおかげで、自分自身を律しなければならないという強い気持ちにも駆られる。「佐藤〇〇4●歳 下着泥棒で逮捕」ではなかなか厳しいものがある。

話の舵を取り直そう。昨日の自助グループの発言では、私は昨日のブログで書いた内容の大枠を語った。気持ちも何も届かない相手に対しては、自分から身を引く術がベストなのだという結論に達したということだ。そして、その概要を聞いた当事者の中には、涙を流して聞いてくれていた人もいた。私は、アディクションを上手く嗜みつつ、それを乗りこえるという考え方は、根本的に間違っていると思っている。上手くアディクションを飼い慣らしつつ、かなり遠い距離で折り合いをつけていくこと。抜けられている間は、一切依存の対象を断絶しなければならないと思っている。こんなことは、ある程度依存の学習をしていれば分かるし、まして専門的に研究している人なら尚更である。

これを理解してもらえないと、当事者は深く苦しみ喘ぐことになる。過去の傷口に塩を塗りたくられる発言や、目をつむったまま、猟銃を発砲されたかのような恐怖を感じ、何かを伝えようとも、届かない郵便物を書留で出しているような気持ちがしてくる時だってある。繊細な問題に、土足で入ってきて、そこを踏み荒らされるのであれば、嗜癖の元になる対象ばかりではなく、依存の根源的なことを理解すらしていない者との関係を断ち切ることも辞さないという気持ちが大切なのだ。

発言者としての最低限のマナーを守るということ。それは、どんな場面でも同じ。そして、その問題がデリケートな問題であるほど、自分の意見を飲み込み、聞き役に徹するということ。自分の意見と言うのは、相手の言いたいことをしっかりと聴く姿勢がなければ、コミュニケーションとして成り立たないということ。この2点に関しては、どんな些細なコミュニケーションであれ、守らなければならないルールではないだろうか。私が、いつも考えていることであった。

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