思考力

途切れた痕に遺す

全ての出来事は、過去の事象となる。これは、時間が流れていく中で、誰にも否定できない「真理」である。私が生まれる前の「戦争」であっても、私が生きている間に起こった数回の「大震災」。狂気に満ちた宗教団体の「毒ガスばらまき事件」。原発が爆発し、現在では、謎の「ウィルス」が猛威をふるっている。もっともっと細かいこともあったし、世界規模でなくとも、ごくごく小さな世界では、隣人同士の騒音問題であったり、肩が触れた触れないなどの小競り合いもあろう。ただ、どんな事故や事件であれ、それに酷く傷ついたり、それを抱えて生きていかない人もいる。

ブラック企業とホワイト企業。勤めるなら、どう考えても「ホワイト企業」なのだが、「カラー」が正反対の会社が、全く同じタスクをした時に、品質は別として、「クロ」であれば、従業員をしごき上げ、とりあえず多くの産物は残る。すると、時間的制約が限られている「シロ」よりも、結果という観点からいうと、「クロ」が優位になる。公務員は別だとして、50代、60代の会社でのポジションは、不景気が続くほど危ういものとなるし、こんな世界的な未曾有の「新型コロナ」の問題の渦中であれば、「クロ」が、今や遅しと「中高年社員」の首をスッ飛ばす気構えでいる。

やはり、そのような状況になってくると、自分なりに「年金」を用意したり、投資は投資でも、大きく負けることはない「インデックス投資」などで、自分の資産に「保険」をかけておかねばならない。「銀行さん」に預けたところで、増えないどころか、インフレ率を考えれば、実質減っていくような預金に頼ることもできない。「銀行さん」は、今日では貸し渋りが当然の状態で、新しい事業を始めるにも、なかなか怠惰な週末から抜け出せない部屋の中で、新しい会社設立の事業計画を練るのも難しいはず。

私は、物心ついた頃から、何やら周囲の人たちと自分自身が違うような気がしていた。それは、今の自分の服用している薬からもわかるように、やはり精神的に特異な部分があって、周囲からはみ出ていたということも考えられる。いや、やはり、そのほとんどは、自分の脳味噌の回路がバグっていて、昨日と今日の気分の波の波長が、グワングワンとブレて双極していることで、周囲と溶け込めないという現象が起こっていたはずなのだ。こうやって、今、金曜のコーヒーをチビチビ飲みながらブログを綴っていると、波がブレたところで誰にも気を遣わないでいられる「一人の時間」を過ごしている事に、限りない喜びを感じ、こんな日がずっと続けば良いと心から思うばかりだ。

ただ、冒頭で書いたように、時間の流れに沿って、全ては「過去」になり、「未来」へ向かいながら、刻々と「現在」が変化していく。人の時間の感覚において、本当に不思議なことが2つある。まず、本当に「幸せ」を感じている時間は、早く感じる。また、終点に辿り着き、元の場所へ戻るときの時間も、行きの時間の経過と比較すれば、早く感じる。何やら、この現象には心理科学的要因で説明できるような記憶があったが、この2つの感覚は、どんな人でも、どこかしらで経験しているはずだ。絵を描いているときに、サーフィンからの帰り道のときに、やはり、私も「それ」を、たくさん経験してきている。この感覚は、これから、何度も何度も経験することになろう。

この事実に沿って考えると、時間感覚というのは、限りある人生において、なんとも皮肉なものである。楽しい時間があっという間に過ぎ去るのであれば、人生を楽しもうとすることは、そのまま人生を削っているという事になり、さらに、時間が早く過ぎているというのならば、自分の人生の折り返し地点が既に過ぎ去っているという事になる。先日に引き続き、昨日、母が危篤状態になり、すぐさま病院へと向かった。大事には至らなかったものの、今の母の時間というのは、どのように移り変わっているのだろうか。もはや、喋ることもできない母に聞くこともできないのだが。

Athletic Woman climbing on overhanging cliff rock with sunset sky background

自転車に乗って安定するためには「スピード」が必要で、ある程度のスピードがなければ、自転車に乗る事そのものが、逆に難しくなる。確かに、スピードの出し過ぎには危険が伴うが、スピードがない事にも同じく危険が伴うのだ。人生で感じる時間の移り変わりに対する「スピード感」。これを、私はどのように調整していけば良いのだろうか。スピードがゼロになる時が、人生のピリオドだとすれば、同じ場所にいる事そのものが不可能といえる。ただ、大して変わらない景色を低速で眺めながら進んでいるのも退屈だ。快調すぎる人生も問題あるが、ゆっくりノロノロと単調な時間も問題がある。

この年齢になって、やはり時間の移り変わりが早く感じるようになったことは否定できない。ただ、この年齢になって、自分の「双極気質」を理解し、積極的に誰かと何かを合わせて物事を解決しようとする事にムリがあると気付いた。「人生100年」といわれるようになったが、「健康寿命」といわれれば、私の人生は折り返し地点を過ぎたのかも知れない。ただ、私が生を果たし、やがて肉体が朽ちたときであっても、自分の思想や考えという不可視な現象は、どこまでも消えることはない。ただ、その遺志を受け取ってもらえるかは別ではある。少なくとも、このような毎日の自分の「おもい」を書き綴り、書き遺すことそのものには、何らかの意味や意義があるのだと信じよう。

 

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