思考力

大激怒のスーパー

 

ここ1週間近く、炭水化物を口に入れることなく、外食も一切していない。コンビニで食べ物を買うこともないので、やはり体型はスリムになっていく。インドボードで、軽く「200回」スクワットをできる私は、スケボーで大きく転倒することもなくなっている。もはや、私が新居の周りでスケボーを蹴っている風景も馴染んできているのか、近所の人からは「上達しましたね」というお言葉をいただく。ただ、まだ入居して2週間程度なので、ややお世辞を含んだ程度の挨拶なのかもしれない。

炭水化物といえば、昨今、さんざん悪者にされてはいるが、ご飯もパスタも冷ませば太らないなどと言っている本も出版されている。健康系の動画のテーマは、別にコロコロと考えが変わるというわけではなく、研究チーム同士の主張が、それぞれ異なっているだけであり、どれが正解であるのかは、今のところ出ていないから、情報が錯乱してしまうのだろう。では、今現在、ほぼ全ての研究で明らかになっている「1日三食不要論」などを、積極的に取り入れていれば、過度なストレスを溜めることなく美しい身体を手に入れることができるはずだ。今、セルフ実験している。

現在、部屋の不要物のデトックスも、かなり進んでいて、思考まで悪循環を繰り返す「汚部屋」を整えている。こうなってくると、身も心も部屋も思考も、とても鮮明になるので、毎日が新鮮になってくる。ただ、そのように自分の行動がテキパキとしてくると、周囲の動きにイライラすることも非常に多くなり、情けないかな、昨日などは、ある場所で1時間以上怒鳴り飛ばすという、何とも私の病気の再発が到来し、それは二十代の頃に発症したほどの勢いだったと感じるので、注意が必要。二十代の頃の怒り方をし、二十年後も同じように怒れるパワーがあるのなら、気力は衰えていないのかもしれないし、元に戻って、私の不治の病である「心の浮き沈み病」が、治ってしまうかもしれない。

ただ、昨日の怒り方は尋常ではなかったので、一夜跨いで冷静になると、謝罪文を書こうかと思うほどの怒涛の勢いであった。ただ、謝罪文を手渡しに行ったところで、私からのカミナリを落とされてしまった人たちの傷口をえぐると思うので、控えておこう。こう考えると、20年以上もの間、この不治の病と闘い、信頼できる主治医とともにそれと折り合いをつけて生活しているのだが、元々は、遺伝として先天性のものだったのかもしれないが、原因が未だにハッキリしていない私の一生モノの障害は、大阪の「アーチ型の水門」が、時代の流れで姿を消していくのとは違い、私という人間が存在する限り続いていくわけだ。今後の医学の発達で、私の気分の上下運動を根治させられる治療法や薬が出てくるのかもしれないが、「取らぬ狸の皮算用」にならぬよう、過度な期待はしないでおこう。

ただ、ITのスピードが加速度を増しているのは事実であり、これを否定する者は、一気に時代から取り残される。これは、間違いない。逆に、これに対して深く関心を持ち、高い期待を持っている者は、これからの時代を有利に進められるのも明らかだと、私は考えている。実は、昨日、発狂するかの如く爆発してしまった場所は、スーパーの裏の事務所であったのだが、そのスーパーのレジでさえ、今は自分でバーコードを通して会計を済ませることができる。たまに、操作をミスしてスタッフを呼ぶこともあるが、6台あるうちの一台のレジでスタッフが対応したとしても、5台は各自で操作できている状態なのであれば、単純計算でレジ待ちの列は、5台増えたことになり、時間が一気に短縮されたことになる。

私が、大学生の頃は、まだ高速道路の”ETC”が普及しておらず、ETCレーンを通り抜ける車は、羨望の眼差しを受けながら、スイスイとゲートを潜り抜けていた。しかしながら、今や、ETCを積載していない車は、入ることができない高速道路や有料道路もあるくらいだ。これを、先程のスーパーのレジに置き換えて考えると、今は無人のレジを使いこなせる人は、時間短縮になるが、やがてそれが普通になり、それを普通にできない人は、もはや入場制限がかかってしまう時代が来る。これを、差別という言葉で表現するのはいささか的を射ているとは言えない。

では、ETCで不正をすれば、そのゲートのストッパーは上がらないのであるから、必然的にルールに従わざるを得ないのであり、スーパーであっても、機械のミスや誤作動というのは、人間の眼よりも正確である。だから、不正がしづらくなるのは当然。万引きGメンが、店内を巡回するより、もはやエコバックに品物を入れてゲートを通過すれば、そのまま電子決済が完了するようなシステムの時代だって、すぐに到来する。いや、そのような支払い方法に近いシステムのコンビニが出てきている時代だ。それをも受け入れられないというのであれば、その人は、昨日の某気分浮き沈みおじさんの如く、バーコードで会計をしているスタッフに対して、その場で大激怒しなければならない。なぜなら、私が幼少期などは、バーコードで金額をカウントすることなどなく、レジのスタッフは、まるで現代のノートパシコンを高速でブラインドタッチするビジネスパーソンのようなスピードで、レジのボタンを叩いていたのだから。

若者が「車離れ」をしていることに議論が沸き起こる。では、そのことの是非を問う前の前の段階で、今の若者が根本的に何に興味を持ち、今の時代が、今の若者たちにとって、今後どのような流れになるのか。そのような流れの中で、これからの車の存在の未来を考えることの方が、よっぽど重要なのではないだろうか。今や、高級車だけに限らず、軽自動車や商用車、田舎での用途しかないような軽トラであれ、自動衝突回避の装備が充実している。では、このスピードで自動化が進めば、人間が運転する必要がなくなる「自動運転」という夢のような話が、すぐに到来するはず。”5G”の流れに乗りながら、若者は、リアルタイムでタクシーに乗る感覚で、無人の車に乗り込み、そこでスマホをいじっているかもしれない。スマホのながら運転に強い罰則が設けられているが、「そんな時代もあったね」とか、「渋滞なんて言葉は死語だよね」なんて言葉も、私が存命の間に聴こえてきそうだ。

かつて、超高額な授業料を支払わなければ受けられなかった予備校の授業が、今では「無料」で受けられる時代。これは、予備校バブルの頃に受験期を迎えていた私にとっては、まさに大革命。500人収容の教室の前の席を確保するために、1時間以上並ばなければならなかった時代。それが、今やスマホで「ながら受講」。映画には全く興味がない私は、予備校の授業が大好きで、大学生になってからも、大学を卒業してからでも受講していた予備校の授業。そして、知らないと損をするような授業展開を、必死に身につけようとしていた。それが、もう「今は昔」の徒然日記ということか。

このコロナ禍で、コロナ前の授業料を支払いながらも、オンラインでの授業を強いられている大学生。入学式以来、大学の建物に入っていないキャンパスライフ。機器の操作をまともにできない教授から得られる知識というのは、ストレス以外、何があるというのか。そもそも、その大学の校舎をキープするために清掃をしてくれる人がいたり、図書館を管理してくれる人がいたり、手続きをするための事務所にいる人がいて、その人たちのおかげで学べるはずの大学のキャンパスを利用できないで、自宅で受ける講義が同じ授業料なのであれば、不満が爆発するのも無理はない。昨日の私の大激怒など比にならぬ声で、デモでも起こすべきではないだろうか。

大学という存在は、就職するための切符を手に入れるための場所ではない。そこで得られる多様な体験が未来へ繋がり、やがてその体験の積み重ねが、自分自身の血肉の経験となり、自分以外の人に影響力を与えることになる。確かに、大きな教室の講義で、やる気のない教授が文献の朗読をしていた大学にも問題はある。大教室で居眠りをしたり、スマホをいじっているよりも、たとえ使い方を理解していない大学の教授のオンライン講義であれ、パソコンの画面越しにリアルタイムで質問できる状態の方がいいと言えばいい。そして、現在、世界中が抱える大問題として、新型コロナウィルスの問題と併せれば、大教室の講義の後の学生の入れ替えの時に、クラスターが発生する可能性だって大いにある。だから、コロナの感染拡大防止という観点から考えると、キャンパスで授業を受けるか否かという問題に関しては、とても難しい問題になってしまう。

今回の記事は、ビフォアーコロナに移行することなく、いかに現状を未来へつなげていくかの話題にした。大学の問題ひとつとっても課題は山積みではあるが、これを自分とは関係のないもので、そのうち誰かが解決してくれるだろうと思って、鼻くそをほじっていれば、鼻糞のような扱いしかされなくなるだろう。昨日の私のような過剰な怒りは別問題として、怒るべきときに何に対して怒るか、そして、その怒りを引き起こしている要因と、それを時代の流れと速度に上手く乗せていくアイディアを考えて組み立てていくことは、これからの時代で「要」となれる人材となれるかどうかに直結しているのだ。

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