思考力

手書きの文字の中の「おもい」

明日は、私の人生で一番と言っても過言ではないほどの取引があるので、もし寝坊でもしようものなら、人生が全く違う方向へ変わってしまうこともある。取引は、明日の10時から、場所は東京。千葉から2時間以上かかる場所なので、今の睡眠状況では、間違いなく寝坊するので、既に宿泊場所は確保している。そのホテルでも寝坊してしまいそうなので、念には念をさらに入れて、モーニングコールをお願いしようと思っている。ここのところずっと、私の睡眠負債日記のようなブログのスタートでも分かる通り、やはり睡眠と起床時間の問題は大きい。

昨日の夜は、なぜか高級腕時計をしている夢を見た。キングオブキングのロレックスの時計。ただ、その時計のロレックスの文字とクラウンマークは、虫眼鏡で見なければ見えないほどの小さく細かい字で書かれているため、他の人が見ても、王者ロレックスだと判ってもらえない。やはり、袖から時計をチラチラ見せて、相手に気づいてもらいたい気持ちになる。挙げ句の果てには、自分からロレックスの時計だと言って見せつけてしまう始末。これでは、誰のために、また何のために時計を買ったのかもわからない。そもそも、どこで手に入れたのかもわからないのだから、私の意識は時計のステータスを見せつけることにしか向いていなかったのだ。

最近急増中のバカッターなる輩たちのSNSでの炎上事件。これだって、自己顕示欲や自己承認欲求が、ひねくれた形で露呈された結果であり、気づいて欲しいのは自分のことばかり。もはや、そのことにも気づかず、周囲からの視線を集めることだけに躍起になっていれば、周囲から無視されるどころか、吊し上げを食うことになり、賠償金という名の鎖とともに深海へ沈められるのである。まさに、デジタルタトゥー。一生消えない足枷と、一生元には戻れない人生終了の合図が出てしまったのだ。

そんなことは他人事だと言わんばかりの自分が、結局のところ、夢の中では同じような自己顕示欲に塗れた存在であるということがわかった。夢でこのようなことをしているのだから、潜在意識の中では、やはり自分も誰かからの称賛を待ちわびているのだ。その誰かからの称賛が、心からの称賛ならまだ救いはあるが、表面的なトリッキーのお世辞で、私の金品を根こそぎ持っていってしまおうとするニンゲンの虚言だとしたら、目も当てられぬ結末になってしまう。そのときに踊らされている自分は、刹那的な宴会で、ガハハと躍り狂っているだけの愚弄者にしか過ぎないのだ。

他の生物と違い、二足歩行を獲得した人間という生き物は、様々な点で、他の生物よりも優れた行動をとれるようになった。ただ、良い面ばかりではなく、同時に悪い面も得たことにもなり、それが自分のエゴを満たすためだけに働いているとするならば、やはりそこには「愚行」という側面しか現れず、そこに踊らされているだけなのであれば、飼い慣らされたペットと同じ生き方しかできないのだ。

昨今、”Chat GPT”を代表とする、AIに代替される仕事も多くなってきた。この進歩は、一年単位ではなく、半年、1ヶ月単位、もっと言えば一日単位で進化している。今週の情報が、来週になったらもはや化石のような時代に突入している。これは、とんでもないスピードだ。完全に機械に代替されることはないにせよ、半分は人間でありながら、半分は機械であるような未来が待っている。そもそも、この記事であっても、自分が筆を走らせることなく、キーボードで打ち込んで、高速で変換キーを押して漢字にしているわけだから、文字を書く手間隙を、機械に委ねているとも言える。そして、自分の文章を世に送り出しているのも、私の力ではなく、WEB上の仕組みを通したインターネトを介入させた手段で公開している。

かつて、10代後半の頃、誰にも見せない自分の手記があった。これは、机の引き出しの中へ眠らせて置いた。その時の精神状態で、文字が乱れることもあれば、整っている場合もある。もちろん机の中にあるわけだから、誰に読まれるわけでもない、自分自身に問いかけるような文章だ。そこにだけに価値があると言いたいわけではなく、文章表現一つとっても、内部から外部に発進するときには、必ずどこかからのレスポンスがあるわけで、そこを蔑ろにした文字の羅列を発信したところで、誰にも刺さらないどころか、誰かを傷つけてしまう可能性だって十分あるのだ。文字を重ねて、一つの「おもい」を伝えるためには、必ず「責任」を伴うのだということを忘れてはならないのである。

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