思考力

思想主義と物質主義を考えなくする薬

 

バリ島のクラマスという世界的サーフィンスポットの動画が、YouTubeに表示されているが、今日から9月に入った千葉外房は、一気に気温が下がった。一睡もせずに東京に行って、眠り薬と心の波のシンクロ率を穏やかにする薬をもらいに行ったので、かなりカラダは疲れていたが、次々にオススメされる動画に気を惹かれ、日付を跨いでの就寝となってしまった。カラダとココロの良い関係を保つためにも、ある程度のところで自制心を働かせておかなければ、自分とはかけ離れた場所で起こっている世界に入り込んでしまい、自分の存在が曖昧になってしまいそうだ。

人間は、いつか必ず死ぬわけだが、それを自然の摂理だとクールに割り切って考えるのか、輪廻転生を考えたスピリチュアルな世界を思い描くのかは、その人次第の価値観である。私なりの考え方であるが、前者の場合、やはり限られた人生の中で、ゆったりとした南国リゾート地で癒しの波の音を聞きたいと思いながら生活している人が多く、後者は、現世での罪や過ちを犯さぬよう、厳しく日々の生活を見直している人が多いのかと思う。これは、崇拝する紙のような存在があるか否かでも決まることでもあり、今夜だけは神様仏様がいるという意識で、合格祈願の御守りを買いに、湯島天神に行く「ニワカ仏教徒」とは全く区域の次元が違う領域だ。

ただ、日頃の行いが悪ければ、有神論者であれ、無神論者であれ、大きな痛手を被ることは避けられないわけで、下らぬバイトテロのツイートをしてアップして、一度着火してしまえば、それは取り返しがつかない損害賠償を請求されることだってあり、個々の罪の意識が希薄であれば、いつの間にか、大きく社会のモラルとかけ離れていることにも気づかぬ状態となっていることもあり、人生そのものが「お釈迦」になってしまうことにもなる。そんな人たちの末路を見守ってくれるほど、オシャカ様もいないことは確実である。

先ほども同じようなことを述べたが、生命の起源を、いわば理系的な観点から「科学的」に分析することもできれば、「文学的思想」で神秘的に想いを馳せることもできる。そして、先ほどと同じように、クールに考えようが、ロマンチックに考えようが、何も考えなかろうが、自分が存在していることは事実であり、そこを否定することはできまい。輪廻転生があるにせよないにせよ、今、このように文章を書いている私と、文章を読んでいる人がいるということは、やはり切り離された何かが存在するということになる。

ここまでくると、かなり哲学的な領域にまで踏み込んでしまうことになるのだが、自己と他者切り離そうとしても、他者というのは、自己が作り出した幻なのだと仮定すれば、結局のところ、この世界というのは、結局のところ、自分一人で完結しているような、夢の世界なのかもしれない。いつしか、プツンとバッテリーが切れたときに、”another world”に戻り、実は、あなたはあなた独りの世界で完結していた「あなた」なのだと悟ることもあることも、否定できなくはない。

9月の突入した瞬間に、気温が下がったせいか、文章を書きながら、まるで先ほど見ていた長い夢を忘れないように、必死で書き記しているような気持ちだ。ここまで考えて、やはり自分の存在というのは、結局は科学的物質が作り上げた、ただの物質の塊だったという着地点に落ち着くのかもしれない。まるで、認知症になってしまった自分を、自分が介護しているかのような錯覚に陥ってしまう。このような摩訶不思議な自分を支えてくれる人生のパートナーなどは、一生現れることはないだろうし、そんな奇異な人が結婚を求めてきたとしたら、絶対に断らなければ、ますます考え出さなければならないことが多くなってしまう。

昨日、処方された新しく追加された薬の注意事項。「気持ちの高ぶりを抑える」「意欲を高める」「気持ちを落ち着かせる」「やる気がしない等の状態を改善する」など。コレ、結局、気持ちをアップさせるのが目的なのか、ダウンさせるのが目的なのか、どっちなのか理解できないのだが、私の主治医が、私の精神状態が異常であることを見抜いている優れた医者であるということは、分かった。1ヶ月に一回のペースなのだが、私の現状が「危ない」ということで、2週間後にも東京SHIBUYAへ行く羽目になってしまった。行くのは構わないのだが、交通費くらい出してもらいたいものだ。それを言ったところで、あっさりとスルーする医者でもある。

それでは、オンラインの授業準備に取り掛かろう。

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