思考力

快眠後の命

今朝、気持ち良い早起きができて、SNSも数本アップロードできた。マットレスを上げて、高価な商品の底にカビなど生えていないかチェックしたけれども、スノコベッド、簡易的な除湿シートがあれば、ほぼ完璧。なんら、本日やるべきことを全て終わらせてしまったようで、そのまま何をするのかを考えてみた。カラオケに行こうか迷いつつ、まだ病み上がりで大きな声を出したり、腹式呼吸をして、ウィルスでも吸い込んでしまったら大変なので、車の方向は、海岸へと向かっていた。

ガソリンは、減っていない。ここのところ引きこもりだったし、ゴミ捨てと、薬局の安売り品の買い出し以外は、車を運転することはなかったので、愛車もお腹を減らせてはいなかった。やはり、海岸線を飛ばすのは気持ち良い。ただ、横断歩道のない海岸線を、車の視覚から飛び出してきた女性がいて、思いっきりクラクションを鳴らした。私が、クラクションを長く鳴らすことは、数年に一回あるかないか。それなのに、今日の愛車からの雄叫びのようなクラクションには、大きな理由があった。

女性は、麦わら帽子を被り、左手で大きなジュースのような物を抱え、右手で幼い子供の手を繋ぎ、引っ張るようにして歩いている。横断歩道ではない場所で、しかも対向車線に車がいたから、完全に死角から飛び出してくるような形になり、こちらとしては、予想はしていたとはいえ、こんなとんでもない横断の仕方をするとは、予想を遥かに超えていたとしか言いようがなかった。仮に、麦わら帽子でも、左手のジュースでも、何かの拍子に落としたり、右手だけが頼りでヨタヨタ歩いている子供が転倒したら、そもそもの自分が転倒したらなど、考えられないのだろうか。さすがに、腹が立って、車から降りようとしていたのだけれども、後ろから大型のトラックが来ていたので、そのままの状態を許容した。これがまた、仮に、トラックが視覚に気づかずにその親子らしき二人を轢き殺したりしたら、一体どうなっていたのだろうか。

そんなこんなで海に着くと、海岸は荒れていたけれども、駐車場は空いていて、大きな弧を描いて、板を旋回させることができた。現在、5本に絞られたメンバーは、各々が個性があって面白い。それぞれに、得手不得手があり、それを補い合うように、自分が板の先導をとって、コントロールする。潮風に当たりながら、風邪を切って走る。とても気持ちがいい。すっきり起きられたとはいえ、いつも起床する時間に海岸線に到着したから、かなり眠気との戦いの運転ではあったけれども、帰りは、命を軽くみすぎている人が、無理な横断をすることもなく、帰路に着くことができた。

やはり、サーフィンには未練がある。もし、コンクリートの上での舞を、海の波の上でできるのであれば、どんなに楽しいだろうかと思う。そんな気持ちで、リサイクルショップを歩いていたら、自分が使っているパーツを仕込んであるスケボーが、一本破格で売られていた。これを、買うかどうかはかなり悩んだけれども、どう考えても板が多すぎる。けれども、中古とはいえ、その部分のパーツだけでも軽く2万は超える板が、若干五千円未満の価格表示だったら、かなり後ろ髪引かれる価格ではあった。でも、断捨離という、自分の中で外せないキーワードと共に、その板を切った。ただ、見る人から見れば、とんでもない破格ゆえ、手に入れられた人は、大ハッピーになるであろう。

ただ、最近よく考える。「大ハッピー」というのは、果たしていいことなのだろうかと。大酒を食らって、大はしゃぎしてのカラオケも、悪くないけれども、一人でアイスコーヒーを飲みながら歌うカラオケの方に「ハッピー」を感じるようになった。ギャンブルとの戦いは、もはや諦めて、闘うのではなく、距離を極力話しておくことにしている。これも、ハッピーな状態だ。そんなことを、昨日の夜、考えていたから、ぐっすり眠れたのかも知れない。その時に思っていたことが、「ほんのりとハッピー」。これこそが、今し方の自分が、常に追い求めずとも、隣に置いておくべき状態なのだと思った。

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