思考力

窮地でアイテムを選ぶ

かつて勤めていた塾で、強引な異動を命じられたとき、「自分の身を守りたいのであれば〜〇〇しろ」という理不尽な要求を受けた。その後の生活において、「その言葉」は私が最も嫌いな言葉となった。私もうっかり「その」ような言葉を口走ってしまうことがあるが、やはり人生でトラウマとなってしまった言葉なので、その言葉やフレーズを聴くのも遣うのも辛い。私の考えの中では、教育現場というのは、例えは悪くとも戦場であり、自分の身を粉にしてボロボロになっても立ち上がるという不敗の心を持っていなければならないと思っている。このことは、以前にもブログで書き綴っているので、これ以上書くことはやめて、そちらに任せよう。

最近では、体調が芳しくなく、10日もたたないうちに金が底を尽きかけてしまった。ただ、自分は毎日こうやってブログを書き綴っていることは事実であり、Google広告も貼っている。すると、グーグルアドセンス としての広告収益が発生し、自分の生活を立て直すことができる。私は、毎日毎日、ブログを書くという作業というか、自分の中の神聖な行為を2年以上続けていたことで、「自分の身を守る」ことができたのだ。この事実を何か別の表現を遣って伝えることはできないだろうか。まだまだ自分の語彙力の貧弱さを感じてしまうところだ。

もちろん、別口で仕事をしなければ生きていくことが不可能なことは確かなので、オンラインでパソコンを使用した作品を納品するというシステムの会社2社に応募をかけたが、2社とも「貴殿の今後の〜」というご丁寧なお祈りを受けた。それにしても、20年以上前に始め、今になっても受験英語の参考書を読み、YouTube動画を視聴していると、やはり現場に戻りたいという気持ちはとても強くなり、昨日は久しぶりに塾講師の募集をしている会社に面接に行ってきた。

最寄り駅を降りた時には、感動以外ない。とにかく栄えているのだ。それも、悪びれていたり、くたびれていたりする状態ではなく、キラキラとした空模様の中、街ゆく人にゆとりがあった。私は、千葉市にある街を知らなすぎた。外房での田舎ライフのような少し泥臭いイメージを楽しもうとしていたことは事実だったが、現在の私のポケットに入っているお財布事情になったことを見れば、自分ができることといえば、講師としていかに恵まれた環境の中で生きていくかということだったと理解した。東京湾側に面した街並みをゆっくりと見て、味わうというゆとりが欲しかった。いわば、『進撃の巨人』で言えば、外界の豊かさを知らず、自分の知る限りの生活範囲内で、自分たちの中にある「平和」という名のもとだけで暮らしていたのだ。

右を知るためには、左の存在を認めなければならない。そのような比較を怠ってしまえば、自分の置かれた環境に対して、自分がオープンな状態なのか、クローズな状態なのかが分からなくなってしまう。そして、自分の抱えている「A」という現象と、退避させる「B」という現象を、同じ天秤にかけた時に傾くものが、自分にとっての行きやすさに直結するのならば、そちらに舵を切ったほうが絶対に良い。頭では分かっていたことだったのだが、そのことを理解しつつも、実際に動くとなると面倒くさかったり難しい面も多く、実行に踏み切れないことも多かった。

ただ、この「比較」を怠るということは、自分自身をひらひらと空中へ漂わせるだけの状態にさせてしまうということであり。それこそ「自分の身を守りたいのであれば」、自分の中にブレない指針と正確な秤が必要なのだということを忘れてはならないのだ。

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