思考力

手品の根

トラウマレベル確定の傷を負ってしまった人の相談に対する助言は、自分の中で既に決めている。このブログでも何回か書いたことだが、「自分より不幸な人を思い浮かべる」と、「自分がやってしまった悪いことワースト3」を考えることだ。自分より苦しい状態にいる人なんて大勢いるし、このようなアドバイスは、アドバイスを受ける前から自分でわかっていることなので、たいてい役に立たない。他方、自分のやってしまったことワースト3は、なかなかレアなアドバイスで、自分でも気づかぬうちに誰かを傷つけていたということを、内反することになるから、なかなか有効になる。もちろん、その後のアドバイスには慎重にならなければならない「責任」を伴うのだが。

ここ長いこと、何やかんやで、自分自身の器が小さく、自分に危害を加えた人への怨念が消えない。自分自身が自分へ先述のアドバイスをしても効かないのだから、私のアドバイスなど、誰にとってもあまり効果はないのかもしれない。ただ、マジシャンが手品の種を知っているのだから、自分の芸に驚く事はないのと同じく、自分の助言に自分が癒される事はないとも言える。年明け早々、全くもって哲学的というか、答えのない堂々巡りなことばかり考えてしまっている。ただ、そもそも年末年始など、私のような怠惰な生活を過ごしている者には変化のつけようなどないわけだから、いつも通り熱々の淹れたてコーヒーをすする幸せが残されている程度。それを味わうことくらいは、誰からも咎められる事はなかろう。

昨年の比較的大きな買い物のうち、「冷蔵庫」に関しては、自分の中で微妙な活躍をしている。やはり、日持ちしない食べ物を保冷してくれるので、その分、食べる量も増えるし、目が覚めると自分が眠りながら食べていた食べ物の残骸が、ベッドの上に転がっていたりする。やはり、眠剤を毎回調節しなければならない私のような患者にとって、冷蔵庫の存在というのは、少々厄介である。私も含め、精神薬で激太りする人は多いが、やはり食べる量を調節するための「何か」は、ないだろうか。

こう考えると、冒頭で述べた、自分なりの一方的なアドバイスや考え方を提示するというのは、あまり良いこととはいえないのかもしれない。振り返り、さらに考えると、自分が生きてきた中で、本当に自分を救い上げてくれるようなアドバイスをしてくれた人の共通する態度は、徹底的な「傾聴」だった。何も批判せず、肯定もせず、ただただ自分の中に相手の存在を吸収するような態度で接してくれた。やはり、人の話を聞くという事は、徹底したスポンジのような気持ちの受け皿の態度を貫くこと。やがて、そこから話者が話に詰まってから、話が始まる。それくらいのタイムラグが必要。

私の場合、「自分」というかけがえのない存在に対して、あまりにも早急に答えを与えすぎているような気がする。まず、自分の怒りがどこに向かおうとしているのか。自分は何を訴えたいのか。そのような「現状」を、もう一人の「聴き手」に伝えることが大切だったのだろうと思う。

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