思考力

弱き手を握り合う

最近のブログは、依存症のことばかりにフォーカスを当てている。やはり、自分の中では、とても大きな問題なのでクローズアップしないわけにはいかない。しかしながら、自分にとって非常に辛い依存症である為、具体的に何の依存の対象かを思うようにかを書きにくい。だから、どうも具体性に欠けてしまう文章になってしまっているのかもしれないが、そこのところはご容赦いただきたい。

さて、昨日は、家具を購入した。一人がけのソファーだ。槇原敬之氏の大好きな歌の一つに、「自分だけの大きな椅子を自然に探していたら、少し寂しくも悪い気分じゃない」というような歌詞があったが、まさにそのような気分だ。家具屋で見つけた大きなソファーは、ワンルームの1人ものの部屋には、大き過ぎた。断捨離ミニマリストという考え方の自分が、大きめの家具を買う。だから、家具であっても、とにかくコンパクトにまとめることばかりに気を取られてしまうものだった。

ただ、依存の対象にお金をつぎ込むよりマシだという考えで購入している。依存症の中で費やすお金を、実生活で有意義に使えるアイテムに交換可能なのであれば、それはとても素晴らしいことだ。そのように、普通の生活の中で、普通の買い物をしていると、自分が依存症ではない「普通の人」と同じような生活ができるのだという前向きな気持ちになれる。今まで依存で浪費していたお金と時間を、実生活の効率性をアップさせるのに役立つアイテムにする。やはり、どう考えても有意義なお金の遣い方だ。

先程の槇原敬之氏。私は、彼が大ブレイクする前に、すでに大ファンであった。大学生の頃、再会した高校時代の友達に、私が千里眼だったということを言われたときは、何やら誇らしげな気分になったような気がした。槇原氏とは、高校2年のときに、銭湯でばったりと遭遇するという、奇跡的にラッキーなハプニングがあった。その時の槇原氏の対応は、信じられぬほど腰の低い丁寧であった。サインを頂いたのだが、なんとも優しさが溢れる方だったという思い出が強く残っている。

種類は違えど、槇原氏も、同じように依存に苦しみ、そこから回復しようとしている。芸能人がことごとく依存性の高い対象物に手を出してしまうのは、それだけ強いファンからの大きな期待が、自分の中で支えきれなくなって、薬物に手が出てしまうのかもしれない。これは、私の中でのひとつの考えであるので、一概には言えないが、一理はあると思っている。うなだれた好奇心で手を出すほどの弱い意志で手を出すようなことはないはずだ。

人間は、とても意志の弱い生き物なのだと実感する。現在、依存症を克服しようとしている自分がよく思うことだ。この弱き部分に付け入ってくる悪のささやきを遮らなければならない。これには、とても強い勇気と根気がいる。人間は、賢いからこそ弱い生き物。そこから恐怖心や迷いが生じる。そこを補うのであれば、やはり具体的な人とのつながりが必要なのではないか。今は、そう感じている。自助グループに通うようになってから、切にそう考えられるようになった。

嗜癖に流されそうになると、仲間の顔が思い浮かぶ。そして、そこで踏みとどまれる。そして一歩、そしてまた1日と、自分の中の悪魔が口を閉ざしていく。そうやって、消えることのないながらも、鎮まっていく悪魔の叫び声を飼いならせられるよう、自分のなかの心の耳と精神力を強靭な状態に保っていかなければならないと思っている。

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