思考力

両極に触れる

あまり良い気持ちを迎えられなかった起床後の朝、浮かない顔で歯磨きをしながらサーフィンの激しい動画を見た。こちらとしては、ゆっくりとしたジャズでも聴いていたいものだったが、選曲するのも面倒くさい。うがいをして、まだゆとりがあると思われるゴミ袋の紐を締め上げ、ゴミ集積所へ向かった。途中で、2人の男性とすれ違い、快く挨拶してみたものの、返事は全く帰ってこない。もしかしたら今日は、ゴミの日ではないのかもしれないと懸念しつつ、やはり年末の燃えるゴミの日ということで、多くのゴミ袋が集積所に集まっていた。

アパートに戻ると、大工のオニーちゃんが、何やら急いで車に飛び乗ってエンジンをかけている。あまりにも慌て過ぎて、こちらの存在には気付いていないというほどだった。この大工の青年の仕事納めは終わったのだろうか。いつもは、朝の4時半に階段を走り降りていく足音が聞こえることからも、もう休みなのかもしれない。それに、若いのに親方という身分だから、自分の気持ち次第で仕事を納められる。なんとも頼もしく、とても良い生き方をしている。手を振ってみたら、運転席から何度も頭を下げて挨拶を返してくれた。こういう朝は、とても気持ちがいいものだ。一人の爽やかな人の対応で、朝の気分全体の雰囲気が変わる。

詳しくは書けないが、昨日は非常にイレギュラーなことがあり、心身ともに滅茶苦茶な状態で、案の定、眠りも浅かった。夜中に何度も目が覚めてしまい、とにかく寒い。もう、この部屋に暖かさを求めるのは不可能なようで、エアコンは暖かい空気を出すだけの温風器状態。部屋全体を温かくキープする代物ではないということを認識せざるを得ない。電気代が高騰する中、一日中エアコンをブンブン回しているのだから、もはや次回の電気代は目も当てられぬほど高額になっているに違いない。財布も隙間風が入ってきそうである。

やはり、今年は、自分から年賀状を出さないでいよう。ヤドカリ生活だから、書く時間は十分にある。逆に、こんな生活を知らせたい相手などいない。それに、何より、瀕死の事故を負った年の年賀状というのは、縁起が悪いものである。そんな葉書を受け取る人も、ありがた迷惑であろう。前にも書いたが、私が自分から年賀状を出さなかったことは、今までの人生で一度もない。でも、今年ばかりは、あまりにも怠惰な生活の中に、不運が重なってしまったことからも、やはり自粛しようと思っている。もちろん、こんな私に年賀状をくれる人には、心のこもった返信は、当然書くことにする。

今朝の出来事も含め、こちらからの笑顔の挨拶を無視されることもあれば、どんなに自分が急いでいても、しっかりと笑顔を返してくれる人だっている。そして、極端かもしれないが、その両極端の人の存在次第で、自分の心のあり方というのは変わるのかもしれない。そんなことを感じられる朝であった。私から関心をなくしてしまった人、私を気にかけて年賀状をくれる人、私が毎年年賀状を送ることを知っている人。年賀状を一つとっても、自分の心を穏やかにしてくれる人も確かに存在する。やはり、ほとんどすべての現象に対して、人間の心理というのは動いていくのであろう。

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