思考力

More Power.

 

ひろゆき氏に並ぶインフルエンサーだと私が思っている、リベ大両学長であるが、彼が言う「稼げない人」の特徴の中で、「ゴシップネタが好きな人」が挙がっていた。そのことは、常々、気をつけていたのだが、やはり芸能界を干されたアナウンサーのネタ話などは興味が強く、昨日、一回とはいえ、そのような下らぬ動画を観てしまった。そしてらどうだ、どこかで溜まっていたものが噴射したかのように、オススメ関連動画には、そのような下らぬ動画が表示されるようになってしまった。無意識とはいえ、いまだに他人の噂話に一喜一憂している自分がいることに落胆した。

別に、誰が何の理由で、その世界を去ろうと、私の人生には全く関係がない。それどころか、そんなことに興味を抱いている時間と、心のスキマがムダである。確かに、綱渡り的な人生を歩んでいる私のような人間にとって、輝かしい経歴を一瞬で失ってしまった人の転落のきっかけというのは、とても気になるところ。ただ、そこに照準を合せすぎると、肝心な自分の人生を生きられなくなってしまう。他人の人生を生きてしまうことは、自分の人生を捨てていることなのだから、まさに綱渡りの綱から落ちたところで、誰も救い出しようがない。むしろ、他人の不幸を喜んでいたヒトに差し伸べられる手もなかろう。

私も、少しだけ関わっていた予備校業界だったが、そこは思うより遥かに汚らしく、ありもしないデタラメが平気で撒き散らされる恐ろしい世界でもあった。そこに自分の居場所を作れるほど、自分はタフでもなかった。普通な人生ではなく、誰かが羨むような人生を送りたかった。やはり、そう考えていたことそのものが、誰かに踊らされる人生を造る引き金だったのだ。今となっては、消せないような根も葉もないデマを撒かれた凸凹道の状態を抱き抱えていたとしても、私はそれを引きずって生きる。ただ、そのような私を傍観して笑っている人は、それこそ「作られた私」の人生を歩んでくれているのだから、是非ともそのまま歩んでいただきたいものだ。

今、こんなことを書きながら、よくもこんなに理想的な考えもできるのだと、つくづく自分の発想の転換力に感心してしまった。「デマを吹聴してくれている人の人生を、こちらが笑う理由は、そいつが私の人生を歩んでくれているから」。なんとも滑稽な論理である。このような皮肉な思考法を持てるようになった秘訣は、やはり自分の考えを、ブログで日々発信し、コロコロと「糞転がし」のようにコネくり回しているからであろう。恐るべきは、転がされている自分であり、怖くないのは、私を観ながら笑ってくれている人だ。そのような考え方でいなければ、怒りの矛先を本人に向けるがあまり、トラックごと相手の家へ突進するような事故を起こしてしまう。これは実際、昨日、心のガス抜きができなかったであろう人が引き起こした事件である。

「もっと力が欲しい」。そう願うのであれば、誰かの人生など放っておいて、何よりもまず、自分自身の人生を生きることだ。小さくとも、そんな自分が確かに存在することで、小さな人間の嘲笑すら聞こえなくなる。その瞬間のつながりこそ、自分にパワーが蓄えられている時間なのではないだろうか。やがて、誰かが嘲笑してくる声すら微笑ましく思えたのであれば、私はもっと高い次元に到達できる。私は、私以外の何者にもなれないのだから。

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